草創章 068 10/12 004

「限界形而上・下学の祖、タルフハンゼンは自ら著した命題集”エカテュリア”の中でこう説いている。凡そ万物の還元さるところはそのもの局所一定に無限定な偉大であると。それは実体ならぬ実態を有し、しかも究極に始原的な何ものかであると」

エーヴァが手を挙げたので、テンネル先生は教室の後ろに上目をやった。

「先生」

エーヴァは起立して、堂々と言い放った。

「そんなものは存在しません」

この正直者に先生の与える返答がどのようになるか、若干二十名の注目を一身に浴びて、テンネル先生の表情は一瞬だけ物憂げに濁った。然し、それこそが彼に最も想定しうる反応であった。

「さよう、そのようなものは存在しない」

却って自信たっぷりに顎の下を撫ぜて、

「つまりは無だ」

彼の言葉は草原を横切る風のように子どもたちの間に俄かなさざめきをもたらした。

「憚りながら先生、無からは何も生じませんよ。つまりそれは、無なのですから」

エーヴァが尚も食い下がると、他の子供たちは口々に笑いを漏らした。殺しきれずにしゃっくりだか、笑っているのだか分からないようなその声が何れもどこか嬉しそうであるのは、心の内で密かに蟠っていた矛盾が分明にされた、という訳であった。

「”所謂”科学は尠くもそうかもしれない。全ての事象には原因があり、全ての行いには報いがある。然し、君たちもよく知っているであろうあの海においては、この序列は必ずしも機能すると限らないのだ」

「海?」

「無というかけ離しの天井が海にはある。無に起因する結末、そうとしか呼べないものが」

「そんなのは思考の放棄だ。仮にそんなものがあるとすれば、学問的に取り組む意味が俺には分かりません」

すぐ目の前でイラハが立ち上がったので、エルナは唐突に思索の深きより引き戻された。イラハが何を発言しているかも分からないまま、眠たいのを堪えているような顔で彼のつんと切り揃えた後頭部やら薄桃色に上気した頸やらをぼうっと眺めていた。

―意味が分かりません、か―

彼はいつもそうだ。

―固いなぁ―

顰めっ面を作ろうとして、やめた。実は美だ。美は実を包含して有り余る広大な地平を開拓する、しなければならない。エルナの信念がイラハのものでなくとも、イラハの信念は既に彼女が持ち得る一部なのだ。

「意味はあるさ」

したり、という光を浮かべて、テンネル先生は言った。

「それを考えるのが限界象学者の仕事だ。彼らの論理機構は逆行軸の存在、相反界の再現可能性、更には並行軸相互の多元的アトラクションにまで及んでいる。確実に、この世界の仕組みや成り立ちに迫りつつあるのだ」

「先生」

マアトが手を挙げた。先生が話している間、彼が懸命にあくびを噛み殺しているのをエルナは目撃したばかりであった。

「意味がわかりません」

力の抜けたような、また別の種の笑いが教室の至る所で湧き起こった。テンネル先生はむっとして再び顎をなぞった。

「マアト君、起立してから発言するように」

そして号令をかけるように二度大きく手を打った。

「諸君らで考えてみなさい。この世界で真に普遍なるものの、何たるかを」

子どもたちは初め困惑した様子で近辺の仲間たちに目配せを送っていたが、やがてそうやってせっつかれたうちの一人が辿々しくも見解を発表すると議論はみるみるうちに膨らんでゆき、少しと経たないうちに十人十色の熱が絶え間なく寄せたり引いたりし始めた。

―熱は遍く動的世界の根源的事象だ。なればそれを表象する”火”こそが、僕たちが目にすることのできる最も真なるものではないか―

―違うね、熱はエネルギーが姿を変えたもの、本質なのはエネルギーだ―

―君、誰だっけ。そもそも目に見えるものに限定する理屈が、俺には分からないね―

―でも、エネルギーの究極の抽象が火なのだとしたら?結末が無に起因するなら、火が先に立つことだってあるんじゃないかな―

―詭弁だ―

―詭弁だ―

―蓋し君は抽象という言葉を分かっていないんだ。それに君たち、今やってるのは主と従の話なんかじゃないぜ―

―何だと―

テンネル先生がもう一度手を叩くと、子どもたちは水を浴びせられたようにいちどきに黙り込んだ。

「予定因果、逆放散理論。今日諸君にこの話をしたのは、諸君に必要だと考えてのことだ。明日、厳密には明後日だが、皇国の独立七十周年と時を同じくして、諸君は向こうの数えで九つになる。皇国民としてエデナ皇国院の初等学次に編入することになるだろうが、あそこは九つから専攻がわかれる」

トルテが前のめりに立ち上がった。

「研究所を目指せ、ということでしょうか」

「オズは間違いなく、皇国で最大の学問分野だ。金遣いも桁違い。まあ、学びたければ学べば良いという程度に留めておくがね」

「オズ?」

快活な話ぶりとは対照的に、先生の瞳が人形のような無機質を帯びてゆくように思われて、エルナは背筋が薄寒くなるのを覚えた。

「以前教えたように、科学の諸門は派生であって、根本では皆繋がっている。さりながら、その科学始原の世界にも分たねばならない部分はあるのだ」

先刻までとは打って変わって、固唾を飲むのも躊躇われる程の静寂が教室を支配していた。

「学問をするにはまず、可能な限り抽象化された一本柱を立てて、そこへ対象とする物事を関係させてゆく。柱は屋根を持ち上げる、壁を支持する、あらゆる論証に耐え得るものでなければならない。この知の柱こそが、法と定義さる」

おや、とエルナは思った。ランネル先生の昂り方が尋常を超えすぎている気がしたのだ。姿振る舞いには現れねども、先生はその聡明冷智の背後にどす黒い興奮を抑え込んでいる。それはまさに、怒りのような。

「無に起因する結末、果てしない無へ人智を及ばせる為の法。皇国はそれを、魔法オズと呼ぶ」 


「エルナ君」

子どもたちの列に紛れて教室を後にしたエルナはランネル先生の声に不意をうたれて、抱えていた教本を滑り落としそうになった。

「何でしょう」

「君も、院に行くのだね」

先生の声は講義で遠くから聞くよりも幾分かしわがれて聴こえた。いつも通り柔和なランネル先生に安心して、エルナは人懐っこく肩をすくめた。

「ええ、そうなるでしょうね」

「君のような生徒を手放すのは、大変寂しいことだ」

 私が?エルナはこれまでの自分の中に、先生の寵愛にあたうところを見つけようとした。しかしいくら思い返してみても、挙手することはおろか議論にも加わらない、教室の風景に溶け込み過ぎた学生の姿が突きつけられるばかりであった。

「これからは」

「地政と数理が一つずつあります。それが終わりましたら外で古体語エングリットを」

「ディズィートリ君のところだね」

「ご存じでしたか」

古体語エングリットといえば、ランネル先生は思い出したように言った。

「レネトー先生が君に作文を返したいと言っていた。語学教室まで来て欲しいそうだ」

「分かりました」

「呼び止めたりして、すまんな」

「いえ、ありがとうございます」

先生と生徒はそう言って別れた。

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