草創章 068 10/12 003

「オテマさんがあんなこと言うなんて」

ディズィートリが蹴っ飛ばした石ころは石畳を斜めに横切って道の反対の用水路に落ちた。

「酷い意味で言ったんじゃないと思うけどなぁ」

エルナは彼の非難に全く乗っかってしまうつもりにはなれなかった。

―オテマさんだもの―

「オテマさんもやっぱり、大人だったってことかな」

とディズィートリは言った。

「大人なら、何なの」

「大人は自分で辻褄を合わせられないことが増えるから、狡く見えてしまうんだって、じいちゃんが言ってた」

「ハイラーテ先生は人をよく見ておられるからねぇ」

「そんなんじゃないよ」

それきりディズィートリが言葉を返さなくなったので、エルナは仕方なく黙々と彼の後ろを歩いた。

中央通りは早いうちから祭りの準備で賑わっていた。大勢でまとまった仕事をするのにはある種の呼吸が要るらしく、天幕の綱を引く掛け声や行商の到着を知らせる鐘の音など途切れなく耳にしていると、祭り馬鹿という気分がそこらかしこに堆積して、通りすがりのこちらまで軽妙な心持ちがし始める。露店の張り出しているのはさることながら、家一軒を渡すくらい長い柱が幾本も束ねられて男衆四人がかりで運ばれていくのが気に掛かったのだが、行こう、とディズィートリが促すので、エルナもそれきり聞かずじまいでいた。大通りを外れると、そこは人通りも静かで、早朝の閑静な空気がエルナたちの頬に冷たく触れた。

「空が怪しいな」

とディズィートリが言った。つられて見上げた空は山のほうに灰色みがかって、それが海に向かって侵食を始めていた。幸薄い生白をまだらに残しながらも、重く、のったりと、情景をはみ出してエルナの思い出の外皮にまで食い入るようであった。心が次第に圧迫されて、それまでの澄み透った悦びがやはり夢だったのではないかという気さえしてきた。

 街の婦人たちが集会をしている側を通った。おはようございます、と会釈をすると目覚ましの小鳥たちのような元気の良い返事が口々に浴びせられた。彼女たちはウェードをつっかけて、今起床したばかりという風貌であった。皆、宿母モアたちが舎庭を掃くのに使うような、末のぼうぼうに広がった枝箒を手にしていた。

「磨いとくんだよ」

ディズィートリが説明した。

「シャンは気まぐれで、どこを通るか分かんないから」

「シャン?肉の?」

「そう、しかも生きてる。それに、祭りのシャンは特別なんだ」

エルナもいつか見られるさ、そう言ったディズィートリは決まり悪そうにまた前を向いてしまった。

 街の外れまで来ると商いをする店もばったり見えなくなって、そのうえ二十数年前の大区画改修のため道幅だけは一丁前に取られてあるから、山風が吹き下ろすのも尚のことうらぶれた趣を際立たせていた。学舎の鐘が今にも鳴りそうであるのを思い出して、二人は自然急ぎ足に山へ駆け込む。木々の狭間をうまい具合に貫いて、並び行くもままならない細い獣道がエルナたちが向かうアデルフィア養生所までほぼ一直線に続いている。これはアデルフィアに特有の地形であるが、山とその勾配は丁度街を抜けたところから始まる。一般に山際の街というのはもとより自然と人工の境界が曖昧であって、大地の隆起した狭間に無理矢理に文明を詰め込んで、所々ではみ出したりなぞしているものであるが、アデルフィアにおいて両世界は地形に明確に分断されており、つまりここの山はどこかのてっぺんをちょん切ってきて据えたような、些か不自然な形状をしているのである。登りがきつくなる程に街影はずんずん背中に傾いて鳥瞰の様相を増し、その上へ林冠の群れ騒ぐのが重なって、終いには陽の光が溢れ射るのとさして判別がつかなくなった。

 ラウリ・レモードが何人かの取り巻きを連れて行く手から降って来るのを目撃したとき、エルナは心臓の凍る思いがした。少し前をゆくディズィートリの袖を引いて、登ってきた道を横に逃れることを暗黙のうちに提案した。それはディズィートリが街で彼女にみせたのと同じ、浅ましい振る舞いでしかないのだと、エルナは同時に承知していた。それで、自分をかく貶めたラウリに対する苛立ちが俄かに彼女に起こった。案に相違して、ディズィートリは足を緩めなかった。いっそのことこのまま通り過ぎて欲しい、とエルナが思ったとき、先に声を上げたのはラウリであった。

「よう、アルベー。僑国人と海遊びなんてするもんじゃないぜ」

ディズィートリはそこで初めてラウリに気が付いたというふうな顔をして立ち止まった。

「またさぼりか、ラウリ。みっともないぞ」

ディズィートリの言葉は然しラウリには擦りだにしなかった。口元をへらへらとだらしなく緩ませながら、眼光だけは油断なくぎらついている。

「そうだよ、アルベー。一緒にどうです、アルベー」

ラウリが幼稚な口回しで連呼すると、後ろに控えていた少年たちが互いの肩を擦り合わせるようにくつくつと笑った。彼らの笑い方の、中途半端に高く纏まった感じが尚のことエルナの神経を逆撫でした。

「いい加減にしろっ」

業を煮やしたエルナが割って入ると、ラウリは思いがけずたじろいだように身を逸らせた。あの、人を小馬鹿にしたような笑みも失せた。その間も彼の冷血な眼差しは揺らぐことなくエルナにも注がれていた。

「エルナ、再三言ってることだが、付き合う友達は選べ。帝国男となんて、誰が許した」

「ディズィートリは僑国人だよ」

どういった経緯で人がところに属するのか、ここアデルフィアでは幾分勝手が違うのだと、誰もが薄々勘づいている。

―寧ろ僑国人じゃないのは私たちの方だ―

私たちに足りないのは俯瞰だ、とエルナは思った。だから些細なたかびくにも右へ左へ惑わされてしまうのだ。

「お前は平時から真面目とは言い難いけれど」

ラウリは去り際にエルナを一瞥して、無表情に言い放つ。

「誠実ということでは、また別だな」

エルナはラウリの後ろ姿から目を逸らせて、今度こそディズィートリを真っ直ぐに見た。差し伸べられたディズィートリの手をとる。彼の脚は今にも走り出そうとしている。ラウリたちなんて見えない。見えなくていい。繋いだ手がぐいと引かれる。エルナは反対に手のひらの力を抜いて、それ以上のことは努めて考えなかった。

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