草創章 068 10/12 002
街と海の狭間には人工の衝立が聳えており、エルナたちが居る海の側からは殆ど何も窺うことができない。間近に臨めばそれが実は壁の用のものでなくて、大勢が暮らせる巨大建築であることに気付くのだが、大地の一態とも見紛うその威容はやはり壁と呼ぶのが相応しいようである。アデルフィアは緩やかに交わる二本の山脈に囲われており、その馬蹄形のところを東西にかけてぴったり塞いでいるのが第九アデルフィア研究所である。勿論、海へ出入りするのに研究所の監視は免れないが、エルナくらいの歳の子どもたちには放任と言って良いほど自由な通行が許されていた。中央の円形会堂から二百歩ほど東へ歩いたところにある非常出口と刻されたドアを開けるとすぐに、剥き出しの螺旋階段が上階まで続いている。段の縁はところどころが欠けている。足らない子どもの足幅で、引っ掛けるように登るのでそうなるのである。電灯がいつも消えかけていて、申し訳程度の光を間歇的に放っている。エルナとディズィートリが勝手知ったる様子で抜きつ抜かれつ駆け上ると、ドア一枚を隔てた向こうからは人声や足音といった雑多な騒音が押し寄せてくる。端が霞んで見えるくらい長く真っ直ぐな廊下を、博助も、研究員も、揃いの褐色の軍套を纏って忙しなく行き交っている。そうこうしているうちにエルナたちの前に衛視が現れた。軍人然とした体格には不釣り合いなまでに穏やかな性根がいかめしく繕った表情からも漏れ出している。彼の名はオテマという。
「まぁた、臍の上まで入ったのか」
オテマが二人の頭を横薙ぎにはたくと、海からくっ付けてきた結晶が舞って、床に砂粒の散らばるような音を立てた。エルナがこそばゆそうにくしゃみをする。
「吸い込んだら良くないってあんだけ言ったろ」
「大丈夫だよ」
ディズィートリが胸に手を当てて、大きく息を吸うそぶりをした。
「なんともなってないし、なりそうもないぜ」
「肺に溜まりすぎると、良くないのさ。俺は学者先生じゃないからよく分からんが。ほら、エルナがよくくしゃみしてるのもそのせいじゃないのか」
エルナは鼻を啜り込んで、慌てて首を横に振った。
ざりり、と嫌な音がして、彼らの後ろで研究員風の男が立ち止まる。
「すみません、すぐ片付けますんで」
オテマが大きな体をちぢこまらせる。エルナも咄嗟に頭を下げた。男は音のした片方の足を少し持ち上げて流し目に見分した後で、勘弁してくれ、とだけ言って歩き去った。
「やめます、潜るの」
エルナが言うと、ディズィートリも一緒に頷く。
「ん、まあ、いいさ。海灰さえ持ち込まないんなら」
日頃けんの強いところがあるディズィートリまで突然素直になったので、オテマは多少ならず面食らったようであった。
「それで、明後日からここはどうなるんですか」
「ああ、それがな、いきなり院轄にするのは流石に無理があるということで、多分民轄のまま僑国預け置きになるだろうって、みんな言ってる」
まだ決まった訳じゃないけどな、とオテマはそらを向いて言った。
「じゃあ、オテマさんたちはここに残れるんだな」
ディズィートリが弾み調子に言うと、オテマはすうと目を細めた。
「そうとも限らんさ。少しは皇国の人間も入れないといけないから、やっぱり入れ替わって良いのは俺みたいなのだよ」
いつの間にか、中央会堂の二階部分まで歩いてきていた。会堂は天球まで吹き抜けになっていて、各階を環状の回廊が周回している。オテマに手招きされた方へ身を寄せると、石欄干を飾る透かし彫りの隙間から下の大広間を一望することができた。
「見えるか」
オテマの声音は心なしか強張っている。
「皇国の、エデナの軍人さんたちだ」
七、八人くらいだろうか、めいめい雑談をしたり、歩き回ったりしながら何かを待っているように見えた。この時間は人通りの絶えない中央広間であるが、皆関わり合いになりたくないというように大きく回り道をして避けて通るので、彼らの存在は否応なしに目立った。
「色が違うんだなぁ」
とディズィートリが言った。
「軍套は黒とそれ以外の色とで全く別なんだ。あれは黒色だから、黒套って言うんだ」
「じゃあ、オテマさんのは?褐套?」
「俺のは土色の軍套さ。だから色違いじゃないんだよ」
オテマは合わせた襟をつまんで引っ張るような仕草をした。
「私は怖いよ」
抑揚もなしにぷつりと。二人の視線が一斉にエルナに注がれる。
「あの人たち、オテマさんを追い出したりしないよね」
短い間があって、オテマは気を取り直したように朗らかに笑った。
「大丈夫、大丈夫。そうやって案じてもらえるだけ嬉しいよ」
海には海の匂いが、街には街の匂いがある。外に出たときまず鼻についたのは朝の湿り気を含んだ、搾りたての花油のような芳香であった。オテマは街区線のところまで送っていくと言った。くぐってきたフェンスに鍵をかけているオテマの後ろ姿を、エルナは何となしに足を止めてじっと見ていた。黒い軍套を纏った異国の青年が彼と同じところに立っているのを想像してみた。すると、自分の当たり前が一つ失われたような、ぼんやり寂しい気持ちがするのであった。
「あ、エルナ、分かってるとは思うが、今日の祭りは来ちゃいかんぞ」
オテマが背中を向けたまま言った。分かってます、と頷いたエルナも彼の方を見ようとはしなかった。
「納得いかないんだよなぁ」
独り言にしては大きな声で、ディズィートリが言う。
「なんでさ、オテマさん」
「言ったろ。エルナの養生所は皇国系だし、十年前もそういう決まりだったんだから」
屈んだ姿勢から身を起こしたオテマは気まずそうに目を逸らせた。
「僑国人じゃないって?」
「そうは言ってないだろ」
二人がしているのが自分の見た目でなく、身の上の話だと分かっていても、エルナは顔を伏せて、彼らに見比べられないようにしてしまいたくてならなかった。養生所の子供には髪や瞳の色に皇国の特徴を発現している者が多い。エルナの緑なす黒髪は僑国でも普通に見られるものであるが、瞳まで真っ黒というのは僑国人としても、皇国人としても、殆ど例を見ないことであった。淡く透き通った玉肌の優も相まって、エルナは己の容貌にぎこちなさを感じずにはいられなかった。―刺すような美しさだ―古体語の慣用を借りて、ディズィートリはそう褒めてくれたけれど。
「おかしいじゃないか。アデルフィアの戸籍がエデナに返還されるのは七十年きっかりの明後日だろ。そんならエルナも、他のみんなも、今は同じ僑国民のはずだ」
「六十周年の時もそうだったんだよ。返還が決まってない時分から、そうだったんだよ」
オテマにこれ以上の言い分が用意されていないことは明らかであった。返答に窮した彼の姿はどこかやるせない気持ちをエルナに起こさせた。責任という言葉が、同時に思い浮かんだ。エルナにとって大人の言は子供なぞに計り知れない年月の深みに裏付けられて、その威厳のもとでちびりちびりと発せられるのでなければならなかった。況してその裁量を判じ誤り枯渇させてしまうのは考えるだに痛ましかった。
「いいよ、ディズィートリ。私、別にいい」
「いいったってエルナ、僕がおさまんないよ」
エルナがディズィートリを押し戻すように彼の前に出ると、それで初めてオテマは彼女と目を合わせた。
「ごめんな、エルナ」
本当は祭りなんて強いて行きたい訳でもなかったのだけれど、大人にこんなに気を遣われると、逆にしょぼくれてみたいような、困らせたいわけではもちろんないのだけれど、そんなひねた胸中になってくるのだから不思議である。
「別に」
「でもこれは、僑国人のお祭りだから」
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