草創章 068 10/12 001

海は生きている。海は恐れている。天涯を巡る遍く生命の枝はいつしらに海へ壊たれ、欣喜さる母娘らの甘き咽びのなかで、海は永遠の今を胚胎する。


 躍動そのままに節榑立った大地の粗肌を背中に感じながら、エルナ・ブラートは己の左腕を目の上高く掲げた。垂直な、自然のものならざる気流に煽られて、海の粒たちは激しく踊り、惑い、やがてあるところで呆気なく崩壊してしまう。海に風は吹かない。この凡そ海を構成している微小の粒が何であるか、ずっと昔に教わったことがあった。あれは雲のようなものです、と先生は言った。―雲が大気中の水滴の集合であるように、海もまた、粒子に満たされているが故に、限りなく小さな密度ではっきりした形を保っていられるのです―陰りに迷い込んだ粒子は不思議の輝きを失って、いよよ草臥れた埃のように見える。然しそれがひとたび明暗の境界を脱すると、真っ直ぐな陽光がたちまちに輪郭を絡めとって、朧げな点に過ぎなかったのが、暖かな衣で幾重にも包まれる。そうして一回りも二回りも大きくなった粒子は装束をして騒いでいるのが億劫になって、再び何事も無かったように光に縫い留められてゆく。指を曲げたり伸ばしたり、或いは手首を傾けたりして、エルナはそれら小さなもののあらわれの変化に目を奪われていた。肩の辺りにまで力の伝わった拍子に、日頃だぶついている野良着掛けのような童着が捲れ上がって彼女の顔の半分に被さったけれど、攘おうともしずに、エルナの瞳は彼女の意識を離れて、生歿繰り返す星くづの海を漂流していた。

 不意に、エルナは身動きを止めた。海の粒たちは荒々しく揉まれながら彼女の頭を越えて一様に流れていった。代わって足元から真っ白なもやが近付いてきて、それはまさしく先生が形容したところの雲のようであった。その向こうに脛をたくし上げた健康色の脚を見つけるが早いか、エルナはがばと跳ね起きて、やって来る身の低いところへ体当たりの要領で襲いかかった。わ、わ、と慌てたような声が降ってくる。強く押し当てた耳朶に彼の動悸まで感ぜられて、エルナの心は青々しい悦びに暫し潤んだ。少年と少女は乳白いけむの中へ仰向きに倒れ込んだ。初めてお互いの顔を見合わせた時、重なり合ったまま、それがあまり慣れ合った近さだったので、二人は何となしに反対へ手をついて、それでごまかしたつもりでいた。

「刻限だぜ」

と少年が言った。

「もうそろそろ帰んないと」

ディズィートリ、少年の名が呼ばれる。固まりかけの海がぽろぽろとエルナの前髪から剥がれて落ちた。

食堂に揃って朝食を口にしてから、朝一番の講義が始まるまでには小一時間ばかりある。とはいえ部屋に戻って諸々の支度をしたり、腕白なブラート、ブラージュでも街へ遊びにくり出したりするのが関の山であって、街を抜けた先にあるこの海まで遥々足を運ぶ者は彼女たちをおいて他に無かった。

「ごめん」

エルナの声は鼻の奥でくぐもったふうに響いた。

「海灰を飛ばし過ぎた」

「深いとこじゃなきゃ、大丈夫さ」

「いや、くしゃみが」

小鳥の咳き込んだような、ぎこちない音がエルナの発話を寸断した。くさめくさめ、とディズィートリが冗談めかして言うと、エルナも笑って、留まりもした、と眉根のしかまったままで応じた。

「上着だけでも、振るっときなよ」

自分の帯をいそいそと外しながら、エルナのほうを顎でしゃくる。

「上がってからじゃあ、結晶になるぜ」

そうだった。しかしエルナが小さな手で皺くちゃにして振るったものは彼女の膝で中折れになって、依然ずっしりしたままである。

「立ってやんないと」

ディズィートリの手が上から伸びてきて、エルナの童着を取り上げる。

「裾がもっと広がんなくちゃ。ほらっ」

ばふむ、と板を叩きつけたような気味の良い音がして、翼を広ぐるもかくよとばかり、吐き出された粒は海面にさあっと白浪立って、幾筋にも畝り尖ったその先端は追いつき巻き込み合ってときどき叩きつけたようなしぶきを飛ばす。エルナの表情に羨望の色がほの現れた。然るに、それはあくまで幼い彼女の手を引いてくれる存在への憧憬であって、向き直ったディズィートリが柔らかくなった童着を渡したときも、彼女は少し照れた調子でありがとう、と言っただけであった。

「帰ろうか」

「いいよ、別に。ランネル先生は優しいから」

帯を結えるのにかなりの神経を使っていたので、ディズィートリの呼びかけも無意識の天井をふわりと掠めただけであるような心持ちがした。帯留の周りは早くも固まりついてしまっていて、折り曲げたり裏返したりしようものなら、硝子の針のような結晶が剥がれ出てはエルナの肌を刺した。手元に躍起になっているエルナを見て、ディズィートリの頬に意地悪な笑みが浮かぶ。

「生憎と、僕はランネル先生じゃないからね」

あ、ちょっと、というエルナの声にはお構いなしに、ディズィートリは彼女に見せつけるように大回りに海を横切って、しなやかな足取りで駆けてゆく。何者をも寄せ付けないディズィートリの健脚はばねのように勇ましくしかも気まぐれで、その踏み下ろされるそばから海灰が、朝日を取り込みながら立ち昇って、あとに白く長い航跡を棚引かせた。エルナは結びの足りない帯を手に持て余しながら、よろめきよろめき彼を追いかけようとした。途端に、胸の詰まるような恐れがむくむくと起こって彼女の足をすくませた。

―ディズィートリは私を振り返りもしない。飛ぶように、自由に、走ってゆく。もし私を置いていく気があるのだとしたら?そうでなくとも、私のことを忘れていやしないだろうか―

ひとたび生じた不透明の猜疑は引き詰める程に具体的なかたちを取るようになって、はや随分遠くなった少年の影に掠りが掛かる。

―そもそも、あれはディズィートリかしら。こんなに長く振り返りもしないのは、海に正体を奪われてしまっているからに違いない。そうだ、ディズィートリなら―

「エルナ」

はっと我に帰る。正常な感覚がたちまち身体に引き戻される。

「おうい、エルナ」

はにかみ面で、手を振っている。ディズィートリだ。

「な、走っておいでよ」

エルナに映るディズィートリは砕けた硝子よろしく分散されて、やがて甘く、熱っぽい雫がその欠片を滅茶苦茶な彩りに繋ぎ合わせた。想いのものを得たとき、それが往々にして期待した以上であるように、ディズィートリの純真がエルナの心の肌近に沁みて、ま一度倒れ伏して転げ回りたいような気持ちがした。

少年の巻き上げたけむが海の上へ板のように凝って、それは灰色の、だんだらに浮かぶ飛島であった。勇み跳ねるさまに足を踏み置くと、また不定な海の雲に戻ってエルナの脹脛をちりちりとくすぐるのだ。

動物のような、あどけないよろこびをむき出しにして、子どもたちは海に戯れた。

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