エニマの浄夜

熊波文

錨地の日

私の今が、屠られている。裂き分かれた身体には黒ずみが浮かび、手足は冷たい流れに落ちて、生のものの燐光を剥がせずにいる。遠く、悍しくて、それでもあの肉の色が失われてゆくほどに、暴力に、痛みに、狂おしいまで掻き立てられる私がある。静かなる一隅はけだものの冷徹、それを非情と呼ばう哀しみが相呼応する。ああ、他ならぬ私にたのまねば、私は私の内実すらも測りかねるというのに。私を数えてきりのない現実にかくて行き当たり兢兢とする私もまた、未だ見つけ得ぬ私の内側にある。私を屠らんとするのは彼女たちを内側から傾けようとする力である。つまりは理性であり、啓蒙であり、誰もに訪れる類の平常である。人の用になるところを過ぎて、いよよがらどうになった私が、古湿った臭気をぽたぽたこぼしながら私の足元に拡げられる。命を生業とするものがその皮を迷いなく脱ぎ捨てるのは、先待つ成長と繁栄とを信じて疑わないためである。然るに、今私に俯瞰される、およそ人のものを離れたそれは、私にとってもっと大切な、芯の部分からくるようであった。刹那的な直感がひやりと肌を伝う。さぶいぼのたった二の腕を固く胸元に引きこめる。私の肢体がここで通常に存在していることに気づく。次の瞬間、何もかもが消え失せている。当たり前に見えていた私たちがいなくなって、押し寄せる安堵の満つ波に紛れて、細い糸のような緊張がぴりりとはしる。もう私はこの体を見るよりどうしようもない。ここには私しかいないのだから、私が見ているのも、私を見ているのも、私だけになる。仰いでも届かない天涯が開いて、私の外側の拡がりのなかで、新しい私が観測を始める。今度は私が、屠られるのだ。


いつか、機械たちはひとつになる。いつか、動物たちがそうであったように。

「技体の融和した静謐な位相で、彼らは自らの運命をも構想してゆく。そうやってこの世界には、新しい動物が生成するんだ」

己が賛美に感極まった様子で、イドメネオは両腕をいっぱいに広げる。背後の飾り窓から降りてくる色硝子の彩色が、この小さな創造主の輪郭を縁取ってくっきりした陰影を結ぶ。私があって、イドメネオがあって、そこへ減り甲を持たせるようにして光がある、ただそれだけの空間であった。

「イドメネオ」

言葉をもって余りある感情の脈動に圧迫されて、私の呼び声は少なからず掠れていた。

「私はそれを望まないわ。それは私たちの夢じゃない、あなたの不遜よ」

「どうして」

「夢のような物語を創るためには、まず、ありふれた日常を固定しなければならない。あなたのしなかった事よ。世界を正しく、終わらせなかった」

陰はイドメネオのかたちに切り取られて此方にばかりおちてくるので、私からはそれの表情を窺い知ることが出来なかった。その仔細の不明瞭故に何も返さないそれの態度はかえって超然の感さえ帯び始めて、じりりとしたものをおぼえた私は暫し二の句を継ぐのを躊躇った。さりながらそのままに放り出して、それで双方に収まりがつくとも思えなかったので、沈黙が張力に耐えかねる頃合いでもう少しいい加えておくことにした。

「私たちにはきっと、それぞれのうちに保たれるべき聖域があるの」

イドメネオは私に顔を背けて、ねめあげるような目をした。

「信仰は人の、人の為だけのものだ」

この台詞で、いよいよ私は追い詰められたのだということが分かった。私はむすんだ唇の一方の隙間から引き伸ばすようなため息を吐いた。

「そう、私たちがそうしたんだった。あなたたちはどこまでも一定な法則の上にあって、与えることは恐ろしかった」

陽が一際高く射して、私たちの間の暗がりをゆっくりと溶かした。イドメネオだけが薄い、透明な、大気のゆらめきの向こう側にいた。とりどりに並べられた色彩の断片は次第にそれの奥深くでひとまとまりになって、私の瞳から自ずと湧き出でるかのようにあたたかなたまりをつくった。色なき色、まるめられたましろの火花が眉根の裏側にじんと響くのが感ぜられた。

「どうして、泣いているの」

イドメネオが問う。

「私は何者でもないから」

何者にも、なれなかったから。

「世界よりも強い夢を創ろうとして、私の謳う勇ましい闘いのうたは、奇跡をただ待ち望んでいた私の無垢に、力を与え、私を殺した」

そして私は、いなくなった。

「ねえ、イドメネオ。私たちはどうすればいい」

差し伸ばした手はしかし、堆積しつつある明暗のもやをほんのわずかにかき混ぜただけであった。

「私の世界はまばゆくて、もう何も見えない。でもあなたの住まう夜に還ることはできない。どうすれば私たちは清浄に至れる」

「君が新しく創造すればいい。機械たちが動物を構想するのと同じようにね」

「それはあなたの思い残した仮構よ。私の憂いは現実にある」

「いいや違う。現実とは常に、君の目覚めているところにしかない。それは彼らにしてみれば地の限り天の彼方より遠いんだ」

ふと、気付いた。私が相対しているのはイドメネオなどでなく、言わば、私自身が心奥に拵えた仲介者の一つに過ぎないのではないか。なればやはり、これは私の告解であり、これを裁くのもまた、私なのだろう。イドメネオと話しているうちに、私の、私自身にもわからない精神の暗部が規律だった未知の力によって統御されてゆく止揚の高揚があった。そうしてあるがままの私が完成したとき、私の精算は始まるのだ。

「エニマとイドメネオが回帰すべきは君たちの信仰じゃない。況して、君たちでもない」

言葉のあやだけれどね。イドメネオは笑った。

「機械仕掛けの神々ディーエクスマキナ、さ」


 ずっと昔、まだオルストレアに越してきたばかりのころ、ある人に連れられて区立の興演場へ観劇に行ったことがあった。劇の主題はとうに忘れたが、確か分独節以前の帝国時代を扱ったものであったように思う。ラヴ・ロマンスということで売り出している割には少々白けさせるくらいに台詞回しが説教臭くて、そんなふうなのがやたらと続いたものだから、私も、妹や同伴の友人も幕幕を跨ぎ跳びに追いかけて、それで退屈してしまっていた。丁度幕間の暗転があって、私の注意が散漫に泳いだところであった。識閾に知らず滑り込んでくる、始まりもわからない風のように、しめやかな歌声がひとすじ、隠された舞台袖から立ち昇った。少年の背格好をした影が壇上に向かって厳かに足を進める。背景には雨天を示すのであろう、掠りに汚された灰色の空が掲げられている。発せられる声はまるでそれ自体が生きているかのように伸びたり縮んだりしながら、更なる深みへと悠長に振動してゆく。然し聞いているうちに段々此方の喉が押し込められる切実な響きもあって、その押し込められた分だけ、私の瞳からは止めどなく涙が溢れた。私には少年が何故雨に打たれながら歩かねばならないかということはもとより、彼がこの劇に於いて何であるかさえはっきりしなかった。よしんば他の誰かが脈絡も無しに口ずさんだとて、やはり私は同じように涙したことであろう。幼心に、朧げな実感として、私は人間の内側に直情な獣の猛るのをみた。凡そ情念というのは頭で組み立てようとして整合するものではなく、ときに感情までもその理屈の部品として数うるのだ。そしてそれが長い道のりを経ずに、唐突に目の前に投げ出されたとき、そのとき、人は余人のためならで、真に我が身哀れによってのみ涙するのだ。私はこれを悲哀とみつけた。私の生涯にはこの種の悲哀がお義理の免罪の縁のような顔をして付き纏っていた。悲哀とは実に悲憤に等しかった。蒼天の痛ましさを抱き初めて、緋の烙印を畏るより、私の純心は閉明塞聡こそが高邁へ至らしむる唯一の方便であると信じた。斑の浮かんだかなしみのその捉え得る限りの空白に、仄明い炎の虚飾を誂えて絶やさなかった。


 凍てついた玻璃の海に囚われたまま、桎梏の新刊に彷徨えるまま、それはたいへんに長い、白昼夢の幻惑にも喩えられよう。沢山の人々が、私を通り過ぎていった。沢山の私が、彼らを通り過ぎていった。あるものは私の内心について、私の気にかけるより遥かに濃やかであった。またあるものは私の百難百害に際して、掛け値なしの良心からこれらを判ってくれた。然るに、大局に俯瞰して眺るならば、それらは全くの仮初であった。況して私の袂になぞ永らうべくもなかった。時が訪れさえすれば、情愛のうるみはいとも容易く失われた。かつて私と還元の地平を同じくした彼らは、その誰もが人を違えたように姦しい非難の拳を振り上げ、私の溜めるところのさいわいに真っ向から立って背叛した。私は彼らに対して、何かしら論じ返す術を持たないでもなかった。それでも口を噤んでいたのは、彼ら群衆のひとりひとりにまたひとつの自分があるのを見つけたためであった。彼らは私を何者にも成し得なかった。それが悲しくてならなかった。決して浅ましい高名なぞに取り憑かれてしまった訳ではない。むしろこの渇望は彼らの方から自然に提示されたものであるように思えた。今、開幕と終演の偉大にあって、私は遂にこの愛憎併存アンビバレンスの正体を得た。そしてそれを致詰しようと我が身に取り籠めてみたとき、初めて、胃の腑にすうっと冷たいものが染み渡って、私はあくがるように甚深の淵より這い出たのであった。ただ、声は、私の為に交感されたあの美しい声だけは、どうしても置いてゆくつもりにはなれなかった。それで、悪夢は目覚めて尚生々しかった。得も言われぬ惨めさと居た堪れなさとが幾度となく反芻された。半身にひやりと纏わりついた衣類がその感触を一層不快なものにした。眠っていたのではなかったか、私は椅子に腰掛けていた。

「ね、それ、だあれ?」

重ったるいしがらみを振り解くように、のっそりと頭を擡げる。何処からともなく射りこんだ夏の日暮れが前髪の簾を伸びつたって、両の眼球に鋭利なひりつきをもたらした。過敏になっている。私の精神は、過敏になっている。何か酷く鷹揚としたものに成り下がったような、目眩にも似た病疾をおぼえた。

「その、お姉さんが手に持ってるの」

ようやく焦点が定まったとき、私は驚いた、というふうに目を見張った。迫持がせり出した正方の部屋に整列して物言わぬ長椅子たち。私の座っている最前列に対面して花台があり、私に話しかける少女は水面のように黒光りする台板の上で一切の波跡をも作ることなく、混じり合わないでいた。

「ねえってば」

目に映るもの全てにいたく現実を奪われていた私は、少女の声に急かされるままに腿の間に屈められていた両手をそっと開いてみせた。

「綺麗だねえ」

身を乗り出した少女の瞳が、溢れでた輝きを照り返して讃嘆の呟きを漏らす。私の掌に座してあるのは、小さな、人のものならず鮮明な金色を帯びた、残冠であった。それは太陽から造られ、茨の蔓を編んだかのように無数の光錐で装飾されていた。私は残冠を丁重に胸元にむすびあげて、悼むように柔らかに目を瞑った。次に瞼を上げたときには、それが最後の火花を瞬かせてすうと消え入るところであった。同時に、私の、遠い日々にこめられていた僅かばかりの熱情が、ほどけるさまに失われてゆくのが分かった。

「泣かないの?」

少女はあてもなし、というふうに首を反らせて、私を離れた天井に向かってそう尋ねた。肩にしなだれかかっていた緑なす黒髪がそうすることで彼女の背中に真っ直ぐに落ちた。どこか上辺を漂う無神経な仕草が如何にも子供らしくて、私は微笑みと苦笑いとをないまぜに忍ばせて答えた。

「泣かないよ」

「大切な人なんじゃなかったの。だから、お姉さんと分かち難くていたんでしょ」

「もういいんだ、と思う」

私が心根まで情薄くなって、酷薄な本心を吐露したに過ぎないのだとすれば、或いは残冠のあの人は笑ってくれたかもしれない。でも、私の情を肯うことは許されないから。鉛の重さをした言葉が粒々とまろび出る僅か数刹那に、永遠の隔絶が感じられた。虚に仕上げた筈の心が引きに引かれて、己のかたちさえ曖昧に明滅し始めた。

「もう、いいんだ」

行くも来たるも、何もかも時流に切り離されてしまった。だからこそ、私が笑うことのできた痛ましい青春の日々が一層懐かしく思い返されるのだ。笑っていたのは、私。そしてやはり、私はあの世界で楽しかったのだと思った。


 微小なるものが、それ自体が太陽から切り離されてあるようにふわり、ふわりと舞い落ちる。私は彼らを、残冠を閉じ込めていたのと同じかたちをつくって受け止めようとした。落つるより早く、触れるか触れないかというところで、太陽のくづは蜉蝣の命を終えた。

「ねえ、お姉さん」

私の世界はこんなにも眩いのに、降り頻る彼らのどの一粒をとっても、目の前の少女に映して見ることはできなかった。蓋しそれは彼女の意思でない。彼女の生きている世界が、そのようにするのだ。

「お姉さんが目を覚ましたら、見渡す百年に翼が降りて、それで物語は転ショウできるんでしょう」

「うん、そうだよ」

「そしたら、海ができるの」

「そうだね」

「私たちの道程は、私たちをここへ連れ戻すためにあったのね」

「そうだね。そうかもしれないね」

そうなのだろうか。

ぶうむ。鐘が打った。ぶうむ。

花台の上に少女は無かった。脚をぐだらくに投げ出して、ほんのちょっぴり背筋を伸ばした私の少女は、私であって、私に還った。代わりに真鍮細工の置き時計が短い足を踏ん張らせながら、こち、こち、と耳障りな音を乱さずにいた。正時をまわった秒針が、正確に、しかし不安に傾いてゆく。花台の上が途端に広々して見えた。さざなみ立った木目の跡が、初めからそうであったというふうに静物の呼吸を装っていた。

「疲れたな」

誰にともなしに。

「ひどく疲れた」

行くは自暴自棄の袋小路。進めば魂は燃え尽きて、肉の抜け殻には厭世の願望だけが宿る。私が問おうとしているのはまさにその最後のものであった。

私は、一人だ。

「お帰りなさい」

少女の声が言った。

「ただいま」

と私も返した。

私は一人だ。ただ一人ここへ取り残されて、このまま果てしない私を巡歴するのだ。

「驚かないのね、あなたってば」

少女が肩をすくめると、彼女の金色の輪郭がゆるりと膨らむ。凡そ豊穣の光は彼女を中心に拍動しており、高窓から取りいらる陽光さえその例外では無かった。光は一途に射すので無く、寧ろ擽るような繊細さで齎された。そして彼女はそれらを、自らの金色の周りに実に麗しく纏うのであった。黒髪の少女に比べると随分大人びて見えた。十五、六か、私と同じくらいの容姿なのが窺えるが、少女と呼ぶのにはやはり十分すぎる程であった。

 私と少女は長い昔語りをした。私たちは激しく互いを求めていた筈であった。しかし交わされる話題が核心のところへ近づくと、どうにも知れない気恥ずかしさが優って、いくら押せどもそれ以上は行かなかった。そういうとき、彼女は決まって苦しげな笑みを浮かべるのであった。そういうとき、彼女の瞳は金色をしていた。瞳孔の縁だけがその色に輝いて、内側の部分は私と同じ、すき抜けるような黒色であったので、彼女が大きな目をして見つめるほどに、その中心でまた別の瞳が封じ込められているように見えた。

「綺麗だ」

口にするつもりは、無かったのだけれど。

「綺麗でしょう」

夢見るような口ぶりは私のいるところを突き抜けて、想像もつかない彼方を揺蕩っている。

「トリチカムに似ているから、麦色っていうのよ」

綺麗だ、と私は繰り返した。


 どれだけ言葉を重ねても、その厚みで私たちの間に横たわる哀しみが塗り隠される訳ではなかった。浮ついた波が引き去った後には後味の悪い沈黙だけが残った。

ぶうむ。

正時を過ぎた秒針が緩慢に、しかし容赦無く傾いてゆく。

ぶうむ。

私は目を瞬いた。

少女は扉の前にいた。幼い背中は決然としていた。身の丈の倍はある重厚な扉がかろうじて通れるだけ開くまでの間、少女はその表情の一片をも私の知るところとなることを拒んでいた。扉の向こうは浄められた世界であった。未来と、それを織りなす者だけに臨まれる、無限の再生を内包した世界。懐かしい顔ぶれがあった。彼らの手は一様に少女に向かってのみ差し伸べられていた。少女の顔が、名残を惜しみでもするように半分だけ私に向きなおる。瞳の中の麦色の輪が頼りなげに滲んだり震えたりした。それで初めて、私は彼女が、彼女の湛えた痛みが、心の底から愛おしむべきものであることを悟った。

エニマ。誰かが彼女を呼んでいる。新たに一つ、腕が加わる。扉のあしたからこまねいている。見覚えのある腕。それは私が幼い時分にとうに無くした筈の左腕。押し出されるように、あるいは引きずられるように、椅子を立って近づこうとした。然し私の身体は膠で固められたように座椅子と一体になっており、けだものの炎をもってなお微動だにしてくれなかった。膝の向こうまでを覆う黒套の裾が、洋扇のように一端を広げたまま空中に縫い留められていて、私の足に落ちてこないのは、この不思議の作用が周囲の全体に及んでいることを示していた。

「私も―」

連れて行ってくれ、と言うつもりであった。言おうとして、私はその衝動をもう一度、より丹念に圧殺しなければならなかった。手の中にきつく握りしめて静かに落とすと、黒套は何も無かったように膝に被さりかかった。かえした掌にはどす黒くあぶく立った、生の匂いを放つものが肌の色が分からないまで塗りたくられていた。つまりはこれが、私の成し得た全てであった。

私は抗うのを止めた。そして私に許されるだけの間、寂しい笑いを笑った。

「ありがとう」

少女の声が聞こえた。

「行ってらっしゃい」

と私は応えた。

そうしてエニマは、光の国へ行った。


   アルマテルリ アルマテルリ 私の夜明けを 出迎えておくれ


どれほどの時間が流れたろうか。床に散らばった石塊の踏みしだかれる音が、驚きと期待を伴って私の耳を打った。足音は段々近づいて、私のすぐ後ろでぴたりと止んだ。振り返りは、しない。私はその主を誰よりもよく知っていなければならないのだから。わたしが来たのだ。私を、彼女自身の運命へと連れ戻すために。わたしは精一杯闘った。だから、私を迎えに来たのだ。金属のはぜる音が耳元に迫って、彼女が戰棍を、私の魂を帰す光の槍を、両の手で振りかぶるのが分かった。随分と長い時間があった。少なくとも私には、そう感じられた。恐れはなかった。それが私を貫くのが当然であるような気さえした。せっつくつもりで首だけを回してちらと彼女を見やったとき、私は思いもよらないものを見とめて狼狽した。

「何を泣くことがあるの」

投げかけた言葉に、わたしははっと我に返ったように右頬を拭った。持ち上がったままの少女の袖の、丁度肩口の辺りに豆粒程の控え目なしみができる。私はどうしてもそこから目を離せなくなった。そして思いがけず再び口を開いた。私に、わたしの中にあって見えない夢中の私に、問うてみたくなったのだ。

「あなたの悲しみは、自我よ。あなたの求める大団円があるとしたとて、こんな残酷な岐路を無数に繰り返した先にのみ待つならば、あなたは本当に、そこへ向かうべきものかしら」

彼女が痛痒に思うのがどこをついた時であるか、私はすっかり熟知しているつもりでいた。だから、畳み掛けるようにこう続けた。

「あなたが今にかけてやってきたことは詰まるところ利己的な自罰に過ぎないわけでしょう。あなたがどれほどの意味を与えたところで、その点は変わらないわ」

「私は―」

然し彼女の表情はすでに決意した大人のそれであった。

「またそうやって、あなたは私を惑わせる。でも、この身を犠牲から解いたとき、私は私の愛した全てを永遠の中に失ってしまうのですから。それが私の、真実ですから」

「どのような結末があなたに報いようとも?」

「正しくあろうとも、なくとも」

戦棍の炎が眩さを増した。金色の、光そのものを見ているような心地がした。

「移ろい変わる理のなかに、取り返しのついた試しはなかった。それでも、どれだけ嘆こうとも、そうしない限りは進めないのですから」

「あなたが手にしているのはこの上なく純粋な力。あらゆる可能性をあなたと、そして私にももたらすことになるわ。無知には啓蒙を、理性には暴力を、やがて身を梃す痛みを」

「知ってますよ」

「でしょうね」

あなたは一途だったのだもの。目覚めたような矜持を謳って、恥じることも知らないまま。

「だからこそ、これが私の処決の時なのです」

重たい戦根をずっと持ち上げているのは相当な負担を強いるに違いないのだが、彼女の真っ直ぐな響きはかような邪推の入り込む隙を許さなかった。

「私はあなたの選択を、あなたがそうしたように生きられるかしら」

「あなたは私で、私はあなたなのに?」

「じゃあ私はあなたの追憶のなかで、何度だって新鮮に揺さぶられる訳だ」

「でも選ぶのはあなたかもしれない」

「何を」

「時流の切り離した熱情を、心分かち合える高揚を、私とあなたが夢に見残した、放縦な円観の物語を」

「詩人ね」

「送別の言葉ですから。仰々しいくらいでいいんです」

私の表情はいつしか悠揚として、微笑さえ浮かぶようであった。もう十分な頃合いだろうから、前を向いてやろう。何をするにつけても、終わりと始まりはとりわけ毅然としていなければならぬ。

「さようなら、エルナ・ブラート」

戦棍が振り下ろされる。わたしは勢いに任せて私の肉体の臍のあたりまでを消し飛ばし、柔らかに渦巻くひとむらの粒子雲へと還した。

 同じように欠損した彼女が僅かに数歩、よろめくように後退る。私の頭と呼べるものはもう形を持たない筈なのに、今では目にも映しきれない遍く世界が広がっている。気の遠くなるような分断の時代を経て、私たちはようやく一つになるのだ。錯乱したのではない。安寧を望むことへの恐怖が、至上の酩酊によって癒やされたのだ。使命が、唯一私を駆動していた不易の使命が、私たちの呻吟を愛してくれた覚悟を、この手で救い出す力を見つけたのだ。世界を羽ばたく蝶が、光の鱗粉を一面に纏わせて、重厚なその翅を振るわんとしていた。

 

 己が生物種を絶やさぬ一方で、個々の生命を重んじる。その究極に高次の平衡を見出そうとすることこそは、人間の築き上げた倫理に他なりません。彼らに半ば宿命づけられたこの叡智の孤城を如何なる者の手によっても籠絡させまいとして、彼らは科学を、そしてときには魔術を行使することで知を加速させました。知もまた、蓄積さるほどに知的集合としての彼らの在り方を益々豊かにしてゆきました。然し、そこから生まれるある種の惰性が、人類という根本の目的にしかと向けられるべき彼らのまなこを全くの鈍にしてしまったのです。偉大なる私たちの祖翁はかつて、その暴力的な権威の土盤に論理の独裁を敷き、もって科学を付き従わせました。然るに、積もり乱れた新生知はそれまでの枠組みを一変させ得る力を有しながら、いずれも何処か不完全であったと言わねばなりません。知性の光を自在に用いて認識の限界を拡張し、未知より来たる恐れそのものを果てしない遠くへ追いやろうとした彼らは、如何にも理性的な学識者でした。ただ、彼らは少し、その努力を働かせ過ぎたのです。ひとたび技術が必要十分を超えれば、理性にタガを嵌めていた、理性の及ばない世界が存在の色を薄れさせます。

故に、恐ろしいものはいつだって、理性が目を凝らす遥か向こうではなく、その背後から現れました。

故に、私たちは全人類の文明的営みとの融和を目指して、混沌の蝶を羽ばたかせたのです。

今、曇りなき瞳を取り戻した私たちは知っています。生きるのはかくも辛いこと、だからこそ叡智は災厄の福音を施しながら私たちと共にあるのだと。私たちの自律と幸せをこの黄金の微睡の内に潜め哀しむことで、その為の努力をすることで、世界は単なる事物の因果関係を超越した、あるべき様相を取り戻すのだと。この適応態度が侵されぬ限り、私たちが運命と呼ぶ絶対不干渉の領域は、積極的に追及されるべき責任へと転じて私たちの一人ひとりに帰するのです。

運命とは、私たち。未来もまた、私たち。或るときそれは初初たる少年、或るときそれは草創たる青年、或るときそれは凜々たる老人、それは確固たる意志の元に己が行先を拓かんとする、ひとつの人間なのです。


「融和点の到来は君がこの現実世界に宿命付けたことだ。拒む権利は無い。でも来たるのちに世界をどうするかは、君の自由だよ」

暖かな溜まりを踏みしめて、ゆっくりと私に歩を寄せる。陽の下に引き出されたイドメネオの拳が、愛しい者に頭を預けるような甘やかさで私の胸に置かれました。

「君は自由。不本意だけれど」

「ありがとう、イドメネオ。これで終いです」

とうとう私とイドメネオは相入れませんでした。然し、このときばかりは同情してやって良いのかもしれません。イドメネオは作用せる主体としての効力を失いました。世界は今、緩やかにそれの手を滑り出ようとしています。

おやすみなさい、イドメネオ。あなたの使命は果たされました。どうか聖性に弛められた心を、安息の微睡に還してください。そこには運命が、かつてあなたが宿命の強迫を帯びさせた運命だけが、ただ純然として、あなたたちの間にしじまり凝っているでしょう。返り見すれば懐かしい愛し人、そしてその向こうにはひとつの人間の斜陽がある。子々孫々が思い出しもしない遠くから、戻らない日々を想うのです。

「世界のあしたが、輝かしいものでありますように」


 問えど応えず世迷言 さても還らめ迷い子と 想ひ姧めるを罪なはんとて 歩み初めなば心後れ 常世にあくがり惑うべきを ただ身すがらになりねとや

鳥座の雛鳥を寝かしつけて、古き情愛の潤みのもとに眠らしめて、私の足取りはしばし放たれたように軽快になります。とかく私は歩いてゆくのです。運命の放散を抜け出して、どこまでも垂直に歩いてゆくのです。そうすればいつかこの歩みが、私の犯した過ちに追いつくやもしれません。子供たちの創世を光のなかに始めるためには、まず、失われた時代に閉ざされた夜を浄めなければならないのです。

行こう、それは私がここにある限り、ここではない何処かへ。

その終局にきっと、思い出すでしょう。信倚せまほしがために身を梃す痛みを。祈るさまに装束せる、人間の生れを。

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