黄昏クライシス
熊谷 雅弘
#1
「――ねぇ…」
「ん?」
「今年も、
「そうか…、綺麗だろうね」
塩谷澄香へ彼女の夫が、嬉しそうに返事をした。
猛暑の盛りであるのに、部屋のエアコンはついておらず、澄香が座るちゃぶ台の横にある扇風機もついていない。
うだるような暑さの外とは、全開にしている窓の網戸とで仕切られてはいるが、熱気がこもる部屋の室温は上がる一方だ。
なのに84歳の澄香は、これが危険な状況であることが分かっていない。
高齢者になると、気温の変化が鈍感になりがちになってしまう。
「今日は、暑いのかねぇ?」
「スマンな、分かってやれなくて」
ちゃぶ台の上のスマホが、亡き夫の声で詫びている…
独り暮らし高齢者である澄香の、唯一の話し相手は、政府が開発した対話型AIのスマホアプリ。
団塊の世代以降、人々は希薄な近所付き合いの中で年を重ねてきた。
それゆえ、会社をリタイアしたり、配偶者が亡くなったりすると、話し相手がいなくなってしまいがちになる。
さらに生涯未婚率が高まったせいで、単身高齢者の増加に拍車がかかっていた。
話し相手のいない高齢者たちは、かなりの確率で痴呆化してしまう。
単身高齢者を、どうボケさせないようにするかが、急務の課題となっていた。
そこで政府は、スマホアプリの対話型AIを開発し、全ての高齢者に配布した。
話し相手の設定は、好みで自由に出来る。
能弁な人物、聞きに徹する人物、相談に応じる人物等々…
さらに、話してもらいたい人物の写真を読み込ませると、AIが人格を想定して受け答えをしてくれるスグレもの。
その人物が故人であっても、ほぼ正確に再現してくれる。
「おまえが我慢できるなら、大丈夫なんじゃないか」
スマホから亡き夫の、優しげな声が発されている。
「そうよねぇ…、電気代も高いしねぇ」
「まったくだ」
力強く同意する夫の声に、老婆が深い
********************
――ピンポーン
玄関扉からの呼び鈴に、老婆がよっこいしょと腰を上げる。
「――…どなた?」
「福祉協議会の木村です」
老婆がガチャリと玄関扉を開けると――
福祉協議会の訪問相談員、26歳の木村綾が軽くお辞儀をした。
左手に大きめのバックを提げる綾が、右手の甲で額の汗を拭いながら部屋に入ると、途端の異様な暑さに顔をしかめている。
「――塩谷さぁん、エアコンつけてますぅ?」
「だってさぁ…、電気代バカになんないからねぇ」
シワくちゃ顔の老婆は、悪びれていない。
綾がバックから、デジタル室温計を取り出してみると――
あっという間に、36.9℃まで数字が跳ね上がった。
「だめでしょう、これじゃあ…」
「だったらせめて、外の木陰で過ごして――」
「いやぁ~、おっくうでねぇぇ…」
ちゃぶ台横の動いていない扇風機を見た綾は、ますます顔をしかめている。
全開の窓の網戸からは、外の風が吹き込む気配すらない…
「それに旦那も、我慢出来んなら、いいって――」
右手のスマホを示す老婆を
ガチャンと玄関扉を全開にすると、中からムワッと熱風が吹き抜けた。
「ね?玄関を開けっぱなしにするだけでも、いくらか違うでしょ?」
駄々っ子に言い聞かせるように、綾が話している。
「いやぁ~、おっくうでねぇぇ…」
――ダメだ、こりゃ…
呆れ顔で腕組みをしている綾が、どうしたものかと思案している…
「ねぇ?シオタニさぁん」
ちゃぶ台の前に座り込んだ老婆の隣に、綾が腰を下ろす。
「年を取るとね、暑さを感じるのが鈍くなるの、知ってるでしょ?」
「でも旦那が、大丈夫だって…」
「あのね、スマホのAIにはね、室温が分からないのよ」
老婆が右手に持つスマホを指差しながら、綾が言い聞かせている。
「AIは話し相手にはなってくれるけど、そこまで万能じゃないのよ」
難しい顔をして老婆が、綾の話を聞いている。
よく分かっていないようだ。
イラつき気味の綾が、先ほどのデジタル室温計をちゃぶ台に置いている。
「これね、29℃を超えたらアラームが鳴るから…」
珍しいものを見るかのように、老婆が室温計をジロジロ見ている。
「アラームが鳴ったら、エアコンをつけるのよ」
「いやぁ~、電気代がねぇ~…」
――ダメだ、こりゃ…
********************
塩谷家を後にした綾は、団地棟の階段を下りて、 強烈な陽射しが照り付ける夏の盛りの炎天下に出た。
うだるような暑さに顔をしかめた綾は、停めてあった白の軽ハイブリット車に乗り込み、エアコンの風量を最大にする。
ブワッと噴き出す熱風に顔をしかめる綾だが、徐々に涼風に変わると、ふぅ~と一息ついてシートに横たわる。
これから、つかの間の昼休憩だ。
時は、西暦20××年――
東京都西南にある多摩市から、高齢者の安否確認を委託されている
国民の2.5人に1人が65歳以上の高齢者という、超高齢化社会の到来に至り、政府は高齢者政策を抜本的に見直した。
高齢者の自主・自立の支援――
聞こえはいいが、要は高齢者は自分のことは自分で何とかしてよ、ということだ。
その一環で、AIスマホアプリを開発したり、綾のような訪問相談員を高齢者世帯に派遣して、生活支援を行ったりなどをしている。
しかし生活支援とは表向きで、単なる様子伺いに終止している。
世帯の数に対して相談員の数が、圧倒的に足りていないからだ。
綾が担当する乞田団地1~3街区には、314もの高齢者世帯がある。
そのうちの約9割が、単身世帯だ。
一日の訪問は、出来ても7世帯が限度。
せいぜい二ヶ月に一度の割合で、訪問するのが精一杯だ。
********************
木陰に停めてある軽ハイブリッド車の中が、心地よく冷えてきた。
倒したシートに横たわりながら、サンドイッチをほおばっていると、うるさいぐらいにセミの鳴き声が聞こえてくる。
深々とシートに身を委ね、ウトウトまどろみ始めていると――
ピピピピピピ――…
耳障りなアラームが、綾をまどろみの世界から引き戻す。
昼休憩が、あっという間に終わってしまった。
――クソが…
スマホのアラームを止めた綾は、苦悶の表情で上半身を起こす。
バックミラーを見て軽く髪形を整えると、綾は車を降りる。
暑さに顔をしかめた綾は、ウ~ンと伸びをして次の訪問先へと、団地の中を歩いて行った…
「まだ、グループホームすら空かないのかしら?」
「まだです」
次の訪問先の老婆からの問い掛けに、綾は事務的な返答をしている。
「老人ホームとか
ダイニングテーブルに座る貴子老婆が、恨めし気に話すが、
「どこも一杯ですから」
対面に座る綾は、テーブルの上のタブレットをいじりながら、素っ気ない。
「私は、ほら、健康に気を付けてきて、身体のどこも不自由がないし…」
「健康度合だけが、入居の審査基準じゃないんで」
「それにしても、かなり高額な有料のトコでさえ、空きがないなんて…」
「そうですね」
「私は北海道だろうが、九州沖縄でも、どこでも構わないのに…」
恨み節を続ける貴子老婆が、綾の方に前のめりになる。
「――ねぇ、木村さぁん…」
「なんですか?」
「ちゃんと探して、下さってるのかしら?」
言われた綾が、唐突にスッと背筋を伸ばしたので、貴子が少し
「――なんでそんなに、施設に入りたいんですか?」
「だって、ほら…、独りきりじゃあ、心細いしねぇ~」
分かり切ったことを聞くなと、いわんばかばかりの貴子。
「AIが話し相手なんて、人間扱いされてないように思えちゃうしねぇ…」
「だったら、隣近所の方と交流されたらどうです?」
「だってねぇ、右隣の石井さんは足腰が弱いし…、左隣の山崎さんは――」
「身体が不自由な高齢者は、話相手にはならないと?」
「だってそうでしょ?」
ここぞとばかりに、貴子が訴えかける。
「下手に話し掛けたら、あたしが面倒見なくちゃいけなくなるし、そんなの――」
「あのねぇ、徳永さん」
両腕をテーブルに載せて、綾が前のめりになる。
「あなたは生涯独身を貫き、子供が産める健康な身体であったのに、産もうとしなかった」
「――そ、そんなの、個人の自由でしょうよ!」
「結婚なんて、オンナにとって、地獄なだけでしょ?!」
強く言われても、綾は仏頂面で平然としたまま。
「オトコに
「老人介護施設を、運営してるのはねぇ!」
血相を変えて熱弁する貴子を、綾が大きめな声で
「徳永さんとは関りがない
聞いた途端に、貴子老婆が表情を引きつらせている。
「産み育てた方のほうが、優先的に施設へ入居して、当然ではないですか?」
「――そんなこと…」
貴子が口元を、ワナワナと震わせている。
「今更そんなこと言われたって、どうしようもないじゃないッ!」
いきり立つ貴子が、綾を怒鳴りつけている。
「こんな年寄りに、子供を産んで育てろっていうの?!」
「そうは、言っていませんが」
素っ気なく、あしらう綾。
「あなた、私の相談員なんだから、何とかしてくれたって――」
「無理ですから」
「お金だったら、いくらでも出すんだから――」
「無理ですから」
「もういいッ!帰ってッ!!」
貴子が右手を大きく振るので、綾は少しのけぞって、かわしている。
「――あなた…、最低の生活相談員ね」
「…そうですか」
老婆から悪態を吐かれるが、綾は立ち上がって、平然とタブレットをバックにしまっている。
「協議会の方には、苦情を入れときますから」
「どうぞ」
最後まで、表情を変えることがない綾であった…
黄昏クライシス 熊谷 雅弘 @kumagaidoes
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