第2話
「なにしてるの?」
「俺にも洗濯やらせて。一度やってみたかったんだ」
彼の白くつるりとしたおよそ狩人らしからぬ足が、泡立つタライの中に入る。
「わ。なんか滑りそうだね」
「慣れないと転ぶわ」
「じゃ、手をつなごう」
洗い桶の中で、彼が私に手を差し出す。
ねぇ、待ってランデル。
今は城の王宮の豪華な広間で、パーティーの真っ最中なんじゃないの?
こんなところにいて、大丈夫なの?
「ほら。早く手を繋いでくれないと、俺が転んじゃう。それとも、俺からのダンスの誘いを断るつもり?」
「そ、そういうワケじゃ……」
「ほら。早く」
そう言うと、ランデルは私の手を取った。
狭い桶の中で体を寄せ合い、その場から動けないままステップを踏む。
「あはは。これじゃダンスとは言えないね。本当に足踏みしてるだけだ」
跳ねた水が顔にまで飛び散っている。
心から楽しそうに笑うその顔は、私の記憶に残る幼い頃のままだ。
「ランデ……。トーマスは、ランデル王子に会ったことがあるの?」
「うん。あるよ。キミにだけは、特別に教えてあげる。俺は今、王子から秘密の任務を請け負っているんだ」
「秘密の任務?」
「そう。だけどそれは秘密だから、マノンにも秘密ね」
なにそれ。
私は彼の肩に手を置き、繋いだ手を上下に揺らされながら、その場でくるくると回っている。
「マノンが王子のことを好きなら、いつでも王子に会わせてあげるよ」
「トーマスにそんなことが出来るの?」
「もちろん! 俺は王子のお気に入りだからね」
汚れてすり切れたような服を着ていても、本当に山に分け入って狩りをする獣の臭いが染みついたような猟師とは違う、質のいい石鹸のよい香りがする。
全く荒れていないきれいな手と健康的な肌が、分けられた身分と境遇の違いを決定付けている。
「だけど、もし会えたとしても、王子は私のことなんて気にもとめないわ」
「どうして! そんなの、会ってみないと分からないじゃないか!」
「会わなくても分かるし、最初から会いたくもないから」
私は彼の肩に乗せていた手を下ろすと、足の動きも止めた。
「会ったところで、どうしようもないもの。そんなものに夢見るような歳でもないし。王子と顔を合わせるくらいなら、早くここから出て、自由になりたい」
「……。マノンはもう、王子とは会いたくないの?」
まるで落ち込んだかのように、真剣な表情で私をのぞき込むランデルに、思わず笑みがこぼれる。
「会いたくない。貴族なんて嫌いよ。お城にいる人たちも、みんな大嫌い」
私の父は、内戦で勝利を勝ち取った現行王に、対抗する王弟側勢力の中心にいた。
権力争いに破れ、父は絞首台で処刑。
財産は全て奪われ、家族は国外追放処分。
なのに、あとわずかで国境を越えようというところで、山賊に襲われ一家はバラバラになってしまった。
私たちを追放するはずだった兵士たちは、助けもしないでそのまま仕事を放置し姿を消した。
山賊たちも彼らが反撃してこないって、分かってたんだと、今になって思う。
もしかしたら彼らは人買いで、申し合わせがあったのかもしれない。
捕らえられた母や弟、他の従者たちがどうなったかなんて知らない。
私は山中を一人逃げ惑い、運良く親切な羊飼いの老夫婦に助けられた。
そのまま生きるためだけに仕事を探し渡り歩いて、流れ着いてしまったのが、フェンザーク城だったってだけ。
「俺だって、貴族連中は嫌いだよ」
内戦で勝利した現国王の、第五王子っだったランデルが王太子として王位継承第一位に任命されようとしているのは、上の兄たちが内戦中にも関わらず互いに小競り合いを続け、命を落としたから。
第一王子は暗殺され、第二王子は戦場での怪我により戦病死。
第三王子は政治に興味がなく、荒れた国内から逃亡を試みたものの、山中で変死体となり発見され、第四王子は自ら命を絶ったと言われている。
「それでも、王子はこの国から逃れることは出来ないんだ」
ランデルにもきっと、私が城を追われている間に色んなことがあったんだと思う。
近くにいてあげたいとは思っても、内戦の始まるきっかけとなったかつての政敵の娘を、城に迎え入れるわけにはいかない。
ましてや国外追放処分とされた者が城内に戻り、王子と会っていると知れたら……。
「ねぇトーマス。王子と近しいのなら、ランデル王子に伝えて」
髪の色はいくらでも誤魔化せても、目の色だけは変わらない灰緑色をしている。
「王子のことを、心から慕う庶民がいることを。王子にとっての安らかな毎日を、願っていますって。決して出会うことがなくても、そんな人が世界に一人はいるんだってことを、教えてあげて」
「マノンは本当に、王子とは会いたくないの?」
「うん。ゴメンね。私はランデル王子とは、一度も会ったことのない知らない人だもの。次の王さまになる人が、いい人だったらいいなって、そう思ってるだけ」
「そっか……。だけど王子に直接会えば、マノンの気も変わるかもしれないよ?」
「ふふ。そんなことは、絶対にありえないから」
私は笑って、繋いでいた手を解く。
夢の時間はもうお終い。
私はタライから下りランデルを引っ張り出すと、脱ぎ捨ててあった彼の靴を差し出した。
「さ。トーマスも、もう帰って。こんなところにいることを誰かに見つかったら、あなたが叱られてしまうわ」
「そうだ! ねぇマノン。これから王子に会いに行ってみない? きっとランデル王子なら、キミを大歓迎してくれると思うよ」
「なにそれ。トーマスは王子から、今夜適当な女の子を王子の部屋に連れてくるよう命じられてるの?」
「そんなんじゃない! そんなこと、あるわけないじゃないか!」
彼は突然、靴を差し出す私の腕を強く掴んだ。
「マノンは今まで、そんな目にあってきたの? マノン。俺はキミをこのまま……」
「放してって言ったじゃない!」
彼の腕を振り払う。
そんな同情、されたくなかった。
彼は今にも泣き出しそうな目で、私を見つめる。
「マノンはもう、俺にも会いたくないの?」
「会いたくないのって……。そ、そんなの、私から会いにいけないもの」
「会いに行けるなら、俺に会いたい?」
「別にそういうことを言ってるんじゃ……」
彼は靴を受け取ると、急いでそれを履いた。
「なら俺が会いに来たら、会ってくれる?」
私はそれには答えず、踏み終わった布巾をすすぎ用のタライに移し始める。
ランデルはそれも手伝ってくれた。
「今だって、自分から勝手に会いに来てるじゃない」
「俺はさ」
彼は水をたっぷり含んだナプキンを持つ手に、力を込めた。
「マノンが俺に会いたいかどうかを聞いてるんだ」
そんなこと、答えられるわけがない。
私の返事は決まっている。
「会いたいなんて、言えるような立場じゃない」
「……。そうか。分かった」
彼は立ち上がると、首に巻いた布を口元まで覆った。
「ランデル王子に、キミからのお祝いの言葉は伝えておくよ。王子は悪い人じゃないんだ。そこは誤解しないでほしい」
「そうね。私もそうだと思う」
「ありがとう。俺もその言葉を聞けて安心した。もう時間がない。また会いに来る」
彼はさっと姿勢を低くすると、石垣の影にそって走り去る。
誰かが迎えに来ていたようだ。
ひょいと身軽に壁を乗り越えると、下働きには立ち入りが禁止されている区間へ消えてしまった。
王子とは身分も立場も違う人。
またすぐ会いに来るなんて、そんな言葉に期待はしない。
私は残された洗濯物を片付け終えると、リネン室の隅でようやく眠りについた。
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