6月12日(水)

━━━━━━夜



ふらふらする頭を振って、夜の街を歩く。

足取りはいつも通り、けれど本当は、すぐにでもその場に座り込んでしまいたかった。それを許さなかったのは、お気に入りの一張羅を汚したくなかったのと、周囲の目を気にして意地を張っているからだ。


けれども、すっかり余裕を失った顔には、しかめっ面がこびりついて、力いっぱい絞られた眉の間には、きっと深い堀ができていることだろう。


耳の後ろにある角ばった骨のあたりを掻きながら、胸のあたりで渦巻いている、恐怖心にも似た、不気味な地響きのような、うなりのような、底知れない焦燥感とも、不安感とも、あるいは不快感とも言える、ぐつぐつと煮えたぎる何かから必死に目を背ける。


今日は本当にひどい日だな、と思いながら、目頭のあたりをつねるようにしてもんでみる。半ば八つ当たり気味だったかもしれない。

けれでもその程度では、眼球の裏側の奥の奥、焦げ付くような痛みには全く届きはしない。おまけに、こんな時に限って睡魔が顔を覗かせているが、この調子では、横になっても眠れないだろう。


こんなにも弱るのは久方ぶりだった。

体の丈夫さにはそれなりに自信があったつもりだったが、ここ最近は年々、弱くなっているような気がしてならない。

その根拠と言えば関連があるかは自信のないところだが、こんな風に体が不調を訴えてくる時、自分で食べたものを内に留めておくことができなくなっていた。


先ほどの便器にこびりついた吐瀉物を思い出す。夕飯を抜いて家を出てきたせいか、固形物は見当たらなかった。代わりに、無理やりにでも押し込んだ水分が、玉のようになって飛び出してきた。今も喉の奥に不快感が残っている。


特に何か入っているわけでもないが、物理的に苦々しい口の中をゆっくりと咀嚼する。そうこうしているうちに信号が青へと変わり、少し歩けばバス停へとたどり着いた。


庇が付いているせいか、まだ朝の雨水が残っていて、プラスチック製のベンチの上にわずかばかりの水たまりを残してる。しかし我慢ならずに、なるべくそれらを躱しながらゆっくりとベンチに腰を下ろす。


始めは腿の上に肘を立てて、全景姿勢でその場にいたが、また嫌な不快感が這い上がってくるような気がして、少しばかり濡れることは諦めて、背もたれに体を預けた。

ポケットからスマホを取りだし、少し離れた位置に鎮座している時刻表とそれを交互に眺める。幸いにも、今しばらくバスはやってこない。


そのまま顔の前までスマホを持ち上げて、今日のうちにきたメールやらメッセージやらを雑に片づける。しばらくいくつかのアプリを巡って、けれども、そんな作業にさほど時間がかかるわけもない。すぐにやること尽きてが虚無な時間がやってくる。






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『悪い…起きてるか?』


【ありさ】「先パイ、こんな時間にどうしたんすか?」

【ありさ】「何かあったんすか?」


『特に用事はないんだけど、寝る前にちょっと話したくてなぁ~』


【ありさ】「そっか、なんかあったのかと思ったっす」

【ありさ】「先パイ、最近どうなんすか?」

【ありさ】「学校とかバイトとか」


『いや~、ちょっと体調が悪くてなぁ…』

『バイト先で吐いちゃったよ笑』


【ありさ】「え、それって大丈夫なんすか?」

【ありさ】「無理しないで、ちゃんと休んでくださいっす」

【ありさ】「体調悪い時は無理しちゃだめっすよ」


『ありがとなぁ~』

『とりあえず今は落ち着いてるから大丈夫』

『明日は学校休んで、家でゆっくりするつもり笑』

『そっちこそ元気か?』


【ありさ】「それが一番っすね」

【ありさ】「ゆっくり休んでくださいっす」

【ありさ】「私はまあ、元気っすけど、最近バイトでちょっと疲れてるっす」

【ありさ】「先パイもお大事に」


『お互い無理せずになぁ~笑』

『じゃあ、ちょっと今日は寝るわ』

『また明日な、おやすみ~』


【ありさ】「お互い無理せずっすね」

【ありさ】「しっかり休んでくださいっす」

【ありさ】「じゃあ、おやすみなさいっす」

【ありさ】「また明日」



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ふと、自分がどんな顔をしているのか気になった。

生憎とそれを確認しようという気にはなれなかったが、きっと自嘲気味な笑みを浮かべているか、もしくは哀しげに微笑んでいるかのどちらかだろう。


相変わらず情けないなと思いながらも、不思議と胸の中にあった粘着質なしこりが、少しは取れたような気がする。

そうこうしているうちに、バスがやってきた。運転手を除けば、誰一人乗っていない、貸し切りのバスだ。その程度でいちいち心が躍ることもないが、今は少しばかりありがたい。


相変わらず空は曇っているが、明日は気持ちよく晴れるだろうか。


-終-

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