第十話 大樹御出奔之事(二)

 数年続いた冷夏はようやくおさまったが、晩夏ともなると朝夕はもう相当に肌寒い。毛氈もうせん敷きの輿を降りた政元が、ぶるりと身震いしてしまうほどであった。

 文亀二年(一五〇二)八月五日早朝、政元の姿は岩倉金竜寺にあった。出奔した義澄に帰洛を願い出るためであった。

 金竜寺は富子が晩年を過ごした寺であった。洛外の岩倉に所在しており、その位置関係から、これへ入るという行為は、そのまま世俗から距離をおくという意思表示に他ならない。

 内陣へと通じる道は、政元にとって通い慣れた道でもあった。落飾し、政務から離れた富子の意向を確かめるために、いっとき足繁く通った道だったからである。

「このたびはご尊顔を拝し奉り……」

 内陣に入った政元が型どおりの挨拶をして顔を上げると、上座にあったのは富子ではなく義澄よしずみ。起き抜けなのか、けだるそうに脇息きょうそくにもたれかかっている。

 袈裟をかけた義澄は、もとどりを切って髪を下ろしていた。

 そのような姿かたちを敢えて見せつけることで、

(言うことを聞かなければ本気で出家するぞ)

 政元を言外に脅しているのである。

 相変わらず子供じみたやり方だ。のっけから苛立ちを覚えさせられる。女(富子)の方がはるかに威厳があった。

 もしいまの政元に政治的立場を離れた一個人としての述懐が許されるならば、義澄が出家しようが世俗に戻ろうが、そんなことはどちらでも良いことであった。

 むしろ義澄に向かって、

「出家でもなんでも、好きになされよ」

 などと放言して引き留めを期待している鼻を明かし、呆気にとられたアホづらをとっくり眺めてやりたいとさえ思う。

 政元にとって将軍義澄の存在が必要だったのは、細川という家や、それが抱えているあまたの被官人どものためだった。自分が面倒を見ているこれらの人々のために、政元はいま、下げたくもない頭を、下げたくもない相手に下げざるを得なくなっているのである。それはたとえるならば、家族の生活や家のローンのために、嫌いな上司や取引先に頭を下げざるをえない現代サラリーマンの心境に似ている。

 家だの被官人だの、そんなものさえなければ政元は、政元自身が望む政元の人生を歩むはずだった。

 政元が愛宕権現の修法にこだわるのは、自分を自分でなくさせているこれら世俗の諸事から逃れんと欲しているからにほかならぬ。空を自由自在に飛び回り、霞を食って生きられるというのなら、家も被官も次の誰かに任せて、自分は生きたいように生きるだけであった。幕府ともなると尚更だ。消え去ってもらったところで一向に構わない。

 これも現代のサラリーマンにたとえるなら、愛宕権現の修法は投資、幕府は会社のようなものか。投資で継続的に収入が得られるなら会社など辞めてしまって一向に構わないし、辞めた後の会社の存廃など知った話ではない。

 修行も投資も思いどおりにいかないからこそ、苦しくとも勤め人として幕府なり会社に忠誠を尽くさねばならないのである。まこと時代は変わっても人の背負っている業は変わらないものと見受けられる。

 天狗になった政元が、ふと思い立って愛宕の山を飛び立ち、むかし暮らしていた洛中の街区を雲間から見下ろしている。そんな情景をときおり夢想することがある。

 将来の洛中で威勢を誇っているのは、細川ではなく畠山かもしれなかった。いやもしかしたら、細川だの畠山だのは消え去り、それどころか、いまはあって当たり前と思い込んでいる足利でさえも消滅して、政元がまだ見ぬ何者かが政務を取り仕切っているかもしれなかった。

 そして、その何者かさえも消え去った、数百年後か数千年後かは知らぬ、もっともっと先の未来――それこそ人々が自由に空を飛び回り、遠く離れた者同士で会話できるほど世の中が便利になったころには、諸人は自らの人生を、個人的な幸福というものをおのずと追求するようになり、それが当たり前の世の中になっていることだろう。

 一部の人間が主導権を握るような政治は誰からも求められなくなり、いまよりずっと賢くなった人々が公論により諸事を決定していく――。そんな遠い遠い未来の日本国は、当代と比べものにならないほど豊かになっているはずであった。

 少なくともいまの義澄は本気で出家を望んでいるわけではなかった。政治の主導権を握るために仏門を利用しているだけの、誰からも求められていない政治がいま、政元の目の前に鎮座している。

 政元の心境を知ってか知らずか

「寺も袈裟も慣れたもので心地よい」

 皮肉を込めた片えくぼを見せてのたまう義澄。

「どうか帰洛あらせられんことを……」

 思ってもないことを口にしなければならない政元。

「帰洛か……」

 政元の真意を汲まず言葉を額面どおりに受け取って、もったいぶる様子が鼻につく。

 義澄は続けた。

「余はそなたや貞宗さだむねに望まれて将軍になったが、いままで将軍らしく政務を取り仕切ったためしがない。朝廷からは即位式典を執行せよと矢の催促を受けておるが、銭を持たぬ身には如何ともしがたい。かといってそなたも伊勢も、その費用を一向に負担しようとしてくれぬ。歴代の将軍がやってきたことができぬというのであれば、余が将軍でいなければならぬ理由などもうどこにもあるまい」

 天皇の代替わりを経験してきた歴代将軍で、即位式典を執行できなかった将軍などこれまでいなかった。相当に見劣りする不名誉な事蹟だ。後代には恥となろう。

「不忠ゆえに負担しないのではございませぬ。銭があればやっております」

「分かっておる。何度も聞いた。ないものを出せとは言わぬ」

「では、是非帰洛を……」

「できぬ。帝にあわせる顔がない」

 銭を出せない政元の事情に一定の理解は示しながらも、それがために即位式典を執行できず、帝にあわせる顔がないゆえに帰洛できぬ――。これまで何度も繰り返してきた堂々巡りの不毛な論争が、ここでもまた繰り広げられようとしていた。

「しかしな政元、その理屈で突き詰めていけば、京都から将軍がいなくなってしまうことになる」

「由々しき事態にございます」

 勝手にしろとは言えない。腹は立つが。

 天狗の修法をいまだ身につけることができていなかった政元にとって、将軍が京都にいるかいないかは死活問題だった。在京の根拠を失った細川が、反対勢力によって袋だたきにされることは疑いがない。かといって別の何者かを将軍に据えれば、またぞろ巨額の銭が必要になるのである。

「そう思う。余も帰洛の件、無下にあしらうつもりはない。条件次第ではな……」

 嫌な予感がする。どうせ碌でもない条件を突き付けられるに決まっている。そういう人間だ。気は進まなかったが、政元は条件なるものを聞かねばならなかった。

「条件とは」

義忠ぎちゅうを殺せ」

 鉄面皮てつめんぴのように表情ひとつ変えることなく、義澄が言ってのけた。

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