第二話 明應八年之赤澤宗益(二)

 大量破壊兵器の登場と浸透によって、現代を生きる我々にとって戦争は、可能な限り避けるべき惨禍と捉えるのが半ば常識となっている。

 しかし戦争がタブー視されるようになったのは人類の歴史から見ればごく最近のことにすぎない。第一次世界大戦で、大量破壊兵器が本格的に実戦投入される以前は、戦争は退屈な日常に刺激を与える一種の冒険と捉える気風すらあった。

 室町、戦国期の合戦に参加した人々のメンタリティーもこれと大差ない。死と隣り合わせの悲壮な覚悟で出陣したのはごく一部の階層に限られており、多くの人々にとって合戦とは、他国から財を奪う絶好の機会と捉えられていた。

 戦場で使用される武器の殺傷能力は現代と比較するまでもないほど低く、出征したとしても戦死するのは運の悪い一部だけ。多くの場合、手っ取り早く身代を肥やす手段として合戦は歓迎されていた。ことに普段は領主から年貢だの公事くじ(課役)を求められ、搾取される一方だった人々からしてみれば、合戦は、最も安直な資源獲得方法と考えられていた。

 宗益が、代官を務めている河内十七箇所において半済はんぜいを実施すると、さとくも合戦の臭いを嗅ぎつけた数千もの人々が、あっという間に赤澤宗益邸宅の門前に参集したから相当のものだ。

「兄者……否、父上、思ったとおり多数が参集しております」

 宗益を兄と呼びかけた男――赤澤あかざわ長経ながつねが宗益に進言した。父と呼ぶべきところ、兄と呼び誤ったからといって、宗益に長経を叱責する理由はない。舎弟長経が宗益の養子に入ったのは単なる家の都合であって、宗益が望んだことではなかった。

 もっとも養子に迎えたというだけあって、年齢的には相当離れている。宗益に髪を生やし、主立った皺を取り除けば、たちまち長経のできあがりであった。

「誰も彼も欲に目を眩ませよって……」

 こみ上げる笑いを堪えきれないように宗益が呟いた。しかし、だからこそ人が集うのである。たいそうな覚悟を持ちあわせて合戦に首を突っ込もうなどという者は、誰ひとりとしていない。

 こういった連中に

「うぬらの相手は叡山の大衆だいしゅぞ。仏罰を恐れず励め」

 と号令すれば、いったんどんな顔をするだろうか。

 大衆とは比叡山の僧兵だ。宗益はこれから、政元の命令に従って比叡山を攻撃するのである。

 叡山の大衆といえば、京都で争乱が起こるたびに軍事力として利用されてきた歴史があった。ご多分に漏れず政元も、義尹上洛に備えて叡山に合力を求めたが、未だ返事はない。叡山から宣戦布告されたわけではなかったが、政元は、叡山が自分に味方しないというだけで、これが敵方に転ずる事態を想定し、行動しなければならなかった。僧侶を殺生するという寝覚めが悪い損な役回りを宗益に押しつけたかたちだ。

 過酷な任務を押しつけられて、宗益にも思いあたるところがある。

(わしのような新参者に、あんなおいしいところをくれてやるというのがそもそもあやしかったんじゃ)

 いうまでもなく河内十七箇所代官補任の件である。通常であれば、細川京兆家内衆として長く政元を支えてきた安富元家あたりに褒美としてくれてやるというのが本筋のように思われる。

 政元は、最初から宗益を使い潰すつもりで十七ヶという要衝を与えたのだった。

「坊主を殺すことはできません」

 こう言って断るのもひとつだったが、十七ヶ代官という好餌だけあって代わりはすぐに見つかるだろう。断った宗益は家中に居場所を失い、元どおりの放浪生活に戻るか、最悪の場合、敵方に転じるのを防ぐために政元から刺客を差し向けられる恐れすらあった。

 政元に殺されるのが嫌なら坊主を殺すしかない。

「いまから坊主を殺しに行くんだって言ったら、こいつらどんな顔をするでしょうね」

 門前に集う豺狼さいろうのような民草を眺めながら長経が言った。長経もまた同じことを考えていたらしい。

「わしも坊主じゃ。知ったことではない」

「わしは違います。困りました」

 長経がおどけたように言う。声を揃えて大笑する二人。言葉とは裏腹に、長経は叡山相手の合戦を恐れてはいないようだった。

 河内を出発した宗益以下数千の赤澤兵団が淀川に沿って北上する。付き随っている大半は足軽である。

 これよりもう少し後の時代になると、足軽といっても装備を統一され、軍隊として組織化されていくのだが、この時代はやや趣を異にしていただろう。出稼ぎ目的の農民や流寓民が主たる構成員だったのであり、装備も統一されていなかった。防具といえば良くて胴丸、大半は半裸に喉輪だけというのが標準で、武具も刀を持つ者はまれ、槍や脇差しがいいところというのが実態に近かったはずだ。鉄砲伝来前夜だった当時、印地いんじ(投石)も立派な戦法のひとつだったのであり、そこらへんの石を投げて戦うつもりだったような連中のなかには、もしかしたら武具さえ持たない者もいたかもしれない。

 訓練され組織化された戦闘集団というよりも、他人の財を奪う目的で緩く結合した強盗集団といったほうが実態に近かったのではなかろうか。

 京都に向かう道すがら、こういった連中はそこらの民家に押し入っては集団の威力を借りて強盗を働いたり、女に乱暴を働いて諸方を荒らし回ること頻りであった。彼らにとっての参戦目的は、敵を打ち破ることではなく欲望を満たすことだったから、宗益もこういった略奪狼藉を止めず黙認した。

 そんな荒くれ集団も、ここが戦場だとばかり思っていた洛中を過ぎ、賀茂川を越えるあたりには

「いったいどこに連れて行かれるんや」

 と不安を口にする者あまた。ざわつく数千の強盗集団に対し、ようやく叡山のふもとにたどり着いた宗益が吼えた。

「うぬらが今から戦う相手は叡山の坊主どもじゃ! 奴らはってるぞ! これまで以上に奪いたい放題ぞ!」

「げえっ!? 坊主相手に戦うぅ!?」

 動揺する一同。

 そこへ現れたのが、斥候と思しき大衆だいしゅ(僧兵)の一団であった。宗益はこの一団を指差して言った。

「奴らを討ち取って一番手柄を挙げるのは誰ぞ!」

 坊主殺しの大罪を恐れて名乗りを挙げる者がいない。せいぜい多衆の力を借りて自分より弱い者から奪うのが関の山だったような連中だから、坊主を殺して地獄に堕ちるほどの胆力などはなから持ちあわせていなかったのである。

「これまでさんざん狼藉を働いてきたうぬらが、いまさら地獄行きを恐れて二の足を踏むとは滑稽なり! もとよりこの世は地獄! いまさら坊主の一人や二人殺したところでなんの変わるところやある!」

 尻込みする諸人の眼前で宗益は自ら馬を駆り、逃げ惑う大衆の一団をたちまち血祭りに上げてしまった。

 宗益は掻っ切った坊主の首を高々と掲げると

「うぬらの親族のうちには飢えて死んだ者も多かろう。衆生の苦しみを救えぬ仏の末路かくのごとし!」

 と吼えた。

 このような獰猛の大将に勇気づけられたものか、赤澤兵団は容赦なく叡山に襲いかかり、学侶大衆の別なく殺戮の限りを尽くして、根本中堂以下堂舎多数を焼き払ってしまったのであった。

 なお、これより七十余年後の元亀二年(一五七一)九月、比叡山は再び戦禍を蒙り、織田信長によって一宇も残さず焼き払われた。宗益によって堂舎ことごとく焼き払われたはずが、一世紀も経ずに活況が復活していたことになる。寺社ゆえに相当の実入りがあって、復興も早かったものか。

 一方で考古調査の結果、信長の焼討以前から多数の堂舎が既に廃絶していたのではないかともされている。その原因者は宗益だったかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る