第三章 薬師寺元一之亂

第一話 明應八年之赤澤宗益(一)

 このときの飢饉は、越前のみならず畿内にも甚大な影響を及ぼしていた。

 地方からは引きも切らず流民が流れ込み、義尹上洛の雑説と相俟って、巷には代替わりの徳政を求める土民蜂起の風聞があちこちに飛び交っていた。

 徳政となると商家にとってはいい迷惑だ。債権が消し飛ぶのみならず、暴徒化した土民の標的となって、営々築き上げてきた家財を破壊し尽くされるのだからたまったものではない。

 土民蜂起に及ばんか、政元は兵を投入して鎮圧するつもりでいたが、それは決してこれら商家の財を守ってやるためではない。政元は、政元自身の権益を保全するために戦うのであって、現代警察が主任務とする一般市民の生命、身体、財産の保護など、当時の権力者にとって知った話ではなかった点には注意が必要だ。

 それどころか政元は、戦乱を嫌って家財を運び出そうとするこれら商家に対し

「京都から逃げるな、食糧を運び出すな」

 などと命じて関所を固めたほどだった。財産を守ってやるどころか、戦況次第ではこういった人々から銭や物資を接収するつもりだったのだ。

 洛中がとんでもない混乱に陥っていた時、政元は赤澤宗益を自邸に呼び出して

「勝てるか」

 と下問した。

 政元の問いに

「勝てます。疑いござらん」

 言い切る宗益。

「いちおう策を聞いておこうか」

 勢いがある義尹陣営を相手に、どうやって戦うつもりか。

 現下、義高側は南北から挟撃される劣勢に置かれていた。いちおう政元にも、赤松や武田といった味方がいないわけではなかったが、強固な盟友だった赤松政則は既に亡く、しかも後継者争いが発生しており、辛うじて頼ることができたのは若狭武田家の元信くらいなものであった。

 この危機をほとんど自力で切り抜けなければならなかった政元からしてみれば、いくら武勇を喧伝される宗益とはいえ、その作戦に不備があればツケを支払わされるのは他ならぬ自分自身なのである。

 政元の問いに対して宗益は答えた。

半済はんぜいを餌に人を集めます」

「やるのか、それを……」

 頭を抱える政元。

 半済とは、軍事勢力が、荘園や公領からあがる年貢の半分を押収することである。南北朝の争乱期に、兵粮米を確保するための緊急措置として行われてきたものが、物資調達のため当代でも行われるようになっていた。特に人々が飢餓に苦しんでいる折とあっては、食の集まるところに人が集まるのが道理というものであった。集めた兵粮を餌に足軽を雇い入れたのである。このように半済は、食糧と兵とを同時に集める一石二鳥の手法だったのであり、急ぎ戦備を整えなければならない危急の時とあっては、これを採用しない手はなかった。

 ただ、政元が眉をひそめたようにデメリットもある。半済が寺社本所領押領に他ならなかったことである。

 多くの寺社や公家にとって、義尹と義高の争いなど、自分たちに累が及ばない限り関係ないことであった。そんなものはしょせん武家の争いに過ぎないのであり、自分たちがどちらかに肩入れしなければならない何の必然性もない。その、自分たちにはおよそ関係がない争いにかこつけて、武家が財産を半分持っていくというのだから、荘園領主からしてみればとばっちりもいいところだ。しかも荘民の中には、武家が求めてもいないのに半済を半ば強引に押しつけ、かたや荘園領主に対しては

「半済があったので年貢をまけて欲しい」

 などと求める者まであったというからしたたかである。

 そういった荘民は武具を持参して武家に出仕し、武家が半済で集めた兵粮を戦場で貪り食った。戦乱にかこつけて自分たちの財を取り返した構図だ。

 このように半済には、武家と民衆にそれぞれ利点があったが、寺社本所などの荘園領主はまったくの丸損で何も得るところがなかった。

 足利家が武家の棟梁たり得たのは朝廷の庇護者だったからだ。朝廷の財を守護し朝儀執行に必要な用途(銭)を献上する手柄があったからこそ、その報恩として将軍位が宣下され、諸侍がひれ伏してきたのである。なんの手柄もないやつばらに官位をくれてやるほど日本国朝廷もお人好しではない。相手が年貢泥棒ともなれば尚更だった。

 南北朝争乱のころは、北朝存立のために身銭を切ってでも足利に戦ってもらわねばならない切実な事情が朝廷側にもあったから痛い半済も甘受したが、それが足利の内輪もめに利用されるというのではどう考えても正当性がない。

 特にこのころ、幕府は朝廷の再三の求めにもかかわらず後土御門天皇の譲位を執行できずにいた。

 後土御門天皇といえば先に記したとおり、明応の政変に怒って譲位を口にしながらも、周囲に諌止されてこれを諦められた天皇であった。

 もっともこのとき譲位を仰せ出されたのも、思いつきや激情に任せてだけのことではなく、年齢的にも譲位が視野に入ってきた頃合いだったという事情もあったに違いない。政変直後とあって流れた譲位話であったが、騒動が落ち着いた後、朝廷は改めて譲位式典の執行を幕府に求め、それは実に五度にも及んだという。

 しかしこれらの求めはことごとく無視され、譲位が果たされることはついになく、明応九年(一五〇〇)十月、後土御門天皇は在位のまま崩御あそばされることとなった。宝算五十九。

 上皇に昇ることができなかったのみならず、その玉体は、なんと死後四十三日間にわたって、内裏に事実上放置されることとなった。

 朝廷はおろか幕府でさえも貧窮しており、後土御門天皇崩御から後柏原天皇即位式典に必要な諸費用を捻出できる者が、当時誰ひとりとしていなかったのである。細川京兆家当主政元だけがわずかにその可能性を秘める有力者と目されてはいたが、結局かなわなかった。

 話が飛んだが、義尹よしただがいよいよ上洛戦を開始しようとしていた明応八年当時、後土御門天皇は存命中で、頻りに譲位をお求めあそばされていた時期でもあり、このまま譲位式典を執行できなければ、義高も政元も、朝廷から「なんの手柄もないやつばら」扱いされる恐れがあった。

 そんなときに宗益が半済で人を集めるなどと言い出したのだ。

 当時の政元には

「朝廷に馳走もせず、なんの手柄もないのに京都に居座り、しかも寺社本所領を押領する犯罪者」

 として、朝敵に指定されかねない危険性すらあった。

 しかし政元は宗益の暴挙を止めることが出来なかった。

 前述のとおり宗益は、みなみ山城やましろにおいて遊佐ゆざ弥六やろくとの抗争が本格化するに先立ち、高野山に出奔している。これは荘園押領をやめるよう命令した政元に対する意趣返しの出奔と推測されるが、場合によっては出奔すら厭わない宗益の前歴もあり、いままさに危機に陥っている政元には、宗益の荘園押領を押しとどめる覚悟も余裕もなかったことだろう。

 政元には、半済という麻薬に目の色変えて飛びつく宗益の背中を、苦虫を噛み潰したような表情で見送るくらいのことしかできなかった。

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