第十七話 義尹公御上洛御決意之事

 好事魔多しとはこのことだ。

 無二の忠臣畠山はたけやま尚慶ひさよしが宿敵義豊を敗死に追いやり、河内を席捲しているときに限って飢饉。これにより朝倉貞景は上洛どころの話ではなくなってしまっていた。いくら尻を叩いたところで動く気配がない。

「こうなれば多少強引でも我らだけで上洛の兵を起こしましょう」

 今後の方針を決める軍議の席で、種村たなむら視久みひさが唱えた。

 確かに視久が言ったとおり、味方の合力なく義尹よしただ主従で挙兵したところで人数的には高が知れている。越中を逐電したとき、主従はわずか十三名だった。これらを中核に挙兵し、上洛を呼号しながら進めば、諸方から味方が参集して、たちまち大軍に膨れあがるだろうという目算である。

 視久は続けた。

「いま、朝倉殿は領内の仕置に手一杯で上洛する余裕がないものとお見受け致す。なるほど当方にとってはアテが外れたものに相違ござらん。挙兵したところで寡兵となるはこれ必定。

 されど思い起こされよ。

 頼朝公が平家打倒の旗を揚げられたとき、大兵を取り揃え満を持して兵を起こされたか。はたまた相模太郎(北条泰時)殿が上皇方と事を構えられたとき、はじめに付き随っていたのはどれほどの人数であったか。或いは等持院殿(足利尊氏)が九州で挙兵されたとき、呑気に兵の参集を待っておられればどうなっていたことか」

 源頼朝が挙兵したとき、当初付き随ったのはたったの三〇〇騎程度だった。また承久の乱においては、北条泰時が十八騎ばかりの郎党を率いて上洛の軍を起こしたことで上皇方の機先を制し、最終的には十九万騎の大軍が参集して、京都を蹂躙するに至っている。さらに建武親政から離脱した足利尊氏が、落ち延びた先の筑前多々良浜で十倍する敵を撃破したとき、味方はわずか二〇〇〇騎に過ぎなかった。尊氏は兵の参集を待つことなく寡兵ながら積極策に打って出て、かえって敵の大軍を打ち破り、上洛を果たすことになったのである。

 いずれも体勢が整うのを待っていたずらに時を遷延させておれば、かくのごとき偉業はとても達成できなかっただろう。

「時」には勢いがあり、その勢いは時として戦力の多寡でさえ凌駕する。そのことはこれら数々の歴史が証明しているところでもある。しかし「時」の有する勢いは、文字どおり一時的なものであって、後になってから「あの時こそ千載一遇の好機であった」などとほぞを噛んでみたところで往時の勢いが戻ることは二度とないのである。

 いま時局を鑑みるに、畠山尚慶が南を席捲し、北には寡兵ながら真の大樹を押し戴く我らがいる。これは謀叛人政元と偽将軍義高一党を挟撃する絶好の位置関係である。劣勢な側が大勢を覆した過去の事例と比較してみても、いまの我々は相当恵まれているといわざるを得ない。かかる好機を軽視し、もしいま、戦力が整うを待つなどと称していたずらに時を過ごせば、天は我らを見放すであろう。孫子曰く、兵は拙速を聞く、未だ功の久しきを覩ざるなり。

 艱難辛苦を甘受していま挙兵するがいいか、兵が集うのを待って将来臍を噛むがいいか、すべては大樹のお心次第。さあご采配を……。

 かくのごとき種村視久の進言を受けて、義尹の心がこれまでにないほど大きく揺れ動いた。

 憎くもない義高との争いはもとより義尹の望むところではなかった。武力で将軍位を追い落とされたいきさつ自体に不満はあっても、それはもはや既成事実化してしまっているのである。義尹は、好むと好まざるとに関わらず、大御所のような立場に立たされてしまっていた。そのことで義尹にもたらされたのは安穏な生活――小難しい政策決定や血生臭い権力闘争とは無縁の、安穏とした生活が保障されるはずであったのであり、その限りにおいては、義尹に復権するつもりなど微塵もなかった。

 しかし現実はどうだ。

 これまでさんざん義尹に投資してきた幕閣や大名連中の中には、損切りを許容できず義尹復権を狙う者がいまだ多くあり、尚慶に代表されるとおり、それらはことあるごとに義高政権に楯突いて、諸方で争いを繰り広げていた。義尹を取り巻いている現状は、もうすでに安穏とはほど遠い権力闘争そのものといった様相を呈してるではないか。

 要するに、いくら義尹が個人として安穏を望んだところで、周囲がその意を汲んで安穏を許してくれる道理などなく、義尹は嫌でも闘争のど真ん中を走らされることになるのだ。

 どうせ闘争を強いられるなら、千載一遇の好機を逸したバカ殿としてではなく、武家の棟梁に相応しくありたい――。

 不思議なものだ。これまでし殺してきた熱い思いが義尹の胸にたぎる。或いは武士の本能なのかもしれない。

 上洛の旗を掲げ、諸方から参集した諸侍を糾合しながら鎧袖一触敵を屠り去る己が姿を、義尹は夢想した。自らを推戴する諸侯のなかに、政元の姿は無論ない。

 義高を失い、敗北を悟った政元が潔く腹を切るのか、華々しく討ち死にを遂げるのか、はたまは首を刎ねられる醜態をさらすのか。

 いずれとも断じがたかったが、義尹は自分の勝利と、そして新政権に政元の名がないことだけは確信していた。

 畠山尚慶と連絡を取り合うため、義尹が木阿弥と幸子丸父子を尚慶のもとに派遣したのは、明応八年(一四九九)六月のことであった。

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