第三話 明應八年之赤澤宗益(三)

 宗益そうえきの活躍で直近の敵を取り除くことができた政元だったが、危機はいまだ去っていなかった。叡山を焼き払って一息く間もなく、宗益のもとに政元から新たな命令が届いた。宇治に下って畠山はたけやま尚慶ひさよしの来寇に備えよという命令であった。

「叡山の次は宇治ですか……」

 長経がうんざりしたように呟いた。

「そうぼやくな。もとよりこちらの方面こそ我らの主戦場じゃ。叡山討伐なんぞの方がおまけだったというだけの話じゃわい」

 宇治は、政元がいる洛中から見れば南の拠点だ。現代でもそうだが、淀川河口から河内十七箇所(守口、門真など)を経て、宇治、伏見へと至る淀川流域は当時からひと続きであった。宗益が言ったとおり河内十七箇所を知行している以上、宇治もまた宗益の担当範囲に入ってくることは、当然の心構えとして想定しておかねばならないことだった。

 宗益にとって心強かったのは、巨椋池おぐらのいけを挟んで宇治のすぐ西に位置する淀に、薬師寺元一が配されたことであった。

 薬師寺元一は摂津守護代薬師寺元長の養子であり、このころまでに摂津守護代職を養父から譲り受けていたと考えられている。そのひととなりはひと言で評すれば獰猛であり、小才によらず武辺一辺倒の性格だったらしい。文盲だったらしく、それを恥じるどころか

「自分は読み書きができないが、一という文字は書けるし読める。自分の名前にも使われている文字よってに、一という字を好むのじゃ」

 などとして憚るところがなかったという逸話からも、その性質の一端が垣間見える。

 防衛戦区を異にしてはいるが、宗益にとって二十以上も年若い猛将元一の存在は心強かったことだろう。特に当時、洛中では義尹よしただ上洛必至の観測が流れ、代替わりの徳政を求めて、ついに土民蜂起に至っていた。万がいち一揆鎮圧に失敗し、政元が洛中を失陥すれば、宇治、淀は敵中に孤立することになりかねなかったわけだから、両者は一蓮托生の間柄だった。

 赤澤宗益と薬師寺元一という、出自も年齢もまったく違う両者の間には、危機を通して強い連帯感が生まれていたのだった。

 長経も宗益と同様、軍事的才幹に優れている。自分たちが置かれている危機に、不安を覚えるのは当然のことであった。

「父上、一揆鎮圧のために安富殿が招致されたと聞きましたぞ」

 長経の注進に、宗益の表情が曇る。

「安富殿では荷が重かろう」

 細川京兆家内衆筆頭格の安富元家であったが、宗益が危惧したように決して合戦が得意とは言えない人物であった。延徳四年(一四九二)三月、六角高頼討伐のため義尹(当時は義材)が近江に出征した際、先陣を務めたのが安富元家であった。元家は多勢を頼んで各所で勝利を収めたが、これに驕ったのか、本営である金剛寺を六角方に急襲され、これを奪われている。政元は義尹の不興を買い、これが原因のひとつとなって冷遇されるようになり、やがて政変へと繋がっていくのである。

「あのとき元家が失態を演じていなければ」

 そんなたらればを口にする家中衆はいまだに多かった。

 政変に富子の指嗾しそうがあったことを知らない家中衆の中には、政元と義尹が不和に陥った原因を、安富元家の敗戦に求める者がまだ多くあった。

 ――元家は合戦が苦手な大将であり、あのとき元家が下手を打ったがために、いま政元が危機に陥っているのだ。

 宗益もそのように理解している。当時宗益は細川家中で重きをなしておらず、政変に御台日野富子の極秘指令があったことなど知る由もなかった。

「ともあれ、わしらはとても洛中まで手が回らん。目の前の敵をやっつけん限りはな……」

 さすがの宗益も南北両方面の敵を相手に戦って勝つ自信はない。宇治の眼前、飯岡(京田辺市)に、尚慶の息がかかった大和の国衆が既に着陣している折も折、いくら不安でも洛中は元家に任せておくしかなかった。

 ここらあたりで、混乱の巷に陥っていた洛中の状況に眼を向けておこう。

 このころまでに、宗益が比叡山を焼き討ちして眼前の敵を取り払うことには成功していたが、それなん宗益自身が言ったとおりおまけに過ぎず、本当の敵、義尹と畠山尚慶は無傷で健在だった。しかも足許では徳政一揆が燃え広がりつつあり、南北両方面に備える必要があった政元は、行政手腕には優れていても合戦が不得手な安富元家を一揆鎮圧に宛てなければならなかった。

 この危機に、尋常ではない恐怖を隠さなかったのが義高だ。

 政元が知っている少し前までの義高であれば、このような危機に際会して、ただ青くなって震えるばかりだっただろうが、大人になった義高は悪い意味で予想外の反応を示した。不安のために身心の均衡が崩れたのか、狂躁人のようになってしまったのである。

 たとえば義高は、やたらと情勢を知りたがった。

 名目上のこととはいえ義高は全体の統率者だったわけだから、自分が置かれている情勢を知ること自体は確かに重要だったが、しかし知ったところで、義高本人になにか打つ手があるのかといえばそんなことはなく、実際の対応は政元が担うのである。

 味方に不利な情報を得て不安ばかりが先立つ義高は、政元の作戦指導に横槍を入れること頻りであった。たとえばこんなふうだ。

「一揆は鎮圧できるか」

 義高の問いに

「はい。安富元家を差し向けて鎮圧にあたらせます。一両日中には鎮圧できるかと……」

 政元が答えると、義高はみるみる顔を真っ赤に染めて

「元家は頼りにならぬ、なぜ政元自ら指揮に当たらぬ」

 などと現場の実際に首を突っ込むようなことを言い始めるから手に負えない。

 寺を出たくないと駄々をこねた小心者の本質は、元服して将軍宣下を蒙っても変わらない。なまじ権力を握った分、むしろ厄介ですらあった。

 義高からの横槍を受け、政元が

「当家の指揮は当主たるそれがしに任せていただこう」

 むっとして答えると、義高はヒステリックに激昂し

「分かった、政元は好きにせよ。余も好きにする。相国寺へ使いをやれ。今出川との合戦の備えて具足を拠出させるのじゃ!」

 今出川、とは義尹を指している。義尹の権威を貶めるために敢えて足利と呼ばず、彼の父義視が旧邸を置いた今出川にちなんでこう呼んだのである。

 悲鳴にも似た義高の咆哮を背中に聞きながら憤然と座を立つ政元。義高陣営は一枚岩と呼ぶにはほど遠い状況だった。

 義高の命を受け、同朋衆のひとりが相国寺に走ったが、寺僧から

「寺なので具足なんかありません」

 もっともな理由で断られるや

「では矢銭(軍資金)として千貫出せと申し伝えよ! それもないと申すなら相国寺などあっても意味がない。ゆえに破却いたす!」

 取り乱して半狂乱の義高がまたも吼えた。

 もともとそんな気がなかったのに半ば強引に将軍に据えられたあげく、否応なく戦乱に巻き込まれ命の危険に曝されることになったわけだから、同情の余地はある。

 しかし、さしも伊勢貞宗さだむねですら

「待たれよ大樹。相国寺には具足はおろか矢銭さえもございますまい。御家の菩提寺を破却するなど自らの顔に泥を塗ると同じ。少し落ち着きあれ」

 このように諫言しなければならないほどだったから、常軌を逸した取り乱しようだった。

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