第十四話 赤澤宗益登場
政元は僧形の男をひとり、召し出していた。
僧形とはいっても頭を丸めているというだけで、もみあげから口許、顎までをびっしり覆うのは、ところどころ白髪が交じった太い髭。袴を
思うに
そんな宗益が政元に仕えることとなった経緯について、詳細は伝わっていない。そもそも赤澤家は、信濃守護を代々つとめる名門小笠原家の一族であり塩崎城を本拠地とする一族であった。それがどういった経緯でここ京都にいるのか。
塩崎といえば善光寺平の南端に位置し、北は北信或いは越府からの、南は中信或いは佐久方面からの往来を扼す結節点であり、交通の要衝でもあった。このため当地は一朝ことあればたちまち戦乱に見舞われるのが常であり、事実塩崎周辺は往古の昔より合戦の絶えない地であった。たとえば寿永元年(一一八二)に行われた横田河原の戦いや、応永七年(一四〇〇)の大塔合戦、そして天文から永禄年間にかけて行われた川中島の戦いなどがその例だ。
塩崎城を本拠地とする赤澤家がそういった戦乱と無縁でいられるはずがなく、どうやら赤澤本家は、宗益の父の代に庶流によってその座を奪われ、京都に流れついたらしい。
ただ、いくら本拠を失ったからといってなんの縁故もない土地に移り住むとは考えづらい。小笠原家庶流といえば三好家が有名だが、その本拠地は四国阿波だった。この三好家の例からも分かるとおり、当時の武家が東西に分立していた事例は珍しくなく、赤澤家が西国にネットワークを張っていたとしてもおかしいことはない。そういった縁故を頼みに上洛したのではなかろうか。
宗益上洛は長享二年(一四八八)ころのこととされており、折から近江出兵中だった九代将軍足利義尚の御前で弓馬の業を披露したと伝わる。衆に
義尚は翌長享三年、二十五歳の若さで早世し、宗益は引き続き次代義材に近侍したらしい。これがどういったわけで政元に仕えるようになったか、前述のとおり詳細は伝わっていないが、宗益の類い希な武力が義材排除の障害になることを恐れた政元が、宗益をヘッドハンティングしたというのが真相だろう。
確かに後の宗益の暴れっぷりをみれば、これをそのまま義材方に置いておくことは脅威以外の何ものでもなかった。
義材方との和談が破れた折も折、細川京兆家を支えてきた上原元秀が難に遭ったこととも相俟って、新たに政元を支える武的柱石として、赤澤宗益にかける期待は大きいものがった。
「褒美は自力次第。敵より切り取るだけ切り取って、自らの身代を肥やすが良い」
上座の政元からそのように声をかけられた宗益。細川から褒美を下すと言えないところに政元の苦衷が覗く。自腹で宗益に褒美をくれてやるほどの財がなかったのである。根っからの武人宗益は、政元の言葉に潜むレトリックに気付いていないようだった。
ともかくも政元より命を受けた宗益は、
この当時、政所執事伊勢貞陸が山城支配に乗りだしていた事情は前述したとおりだ。そうはいっても残念ながら、吏僚のような立場だった伊勢氏は統治の実際を担う武力に乏しく、侵蝕は遅々として進んでいなかった。そこで貞陸が目を付けたのが大和興福寺の衆徒、
しかし古市ごときでは武力に乏しいことに変わりはなく、依然不安定なままだった南山城に、今度は畠山義豊被官の遊佐弥六左衛門が首を突っ込んでくることとなる。
明応の政変では反畠山政長で手を結んだ伊勢貞陸と畠山義豊だったが、共通の敵が消えたあとは、財を巡って争わなければならないほどに両者窮乏していた。もっとも南山城は歴代畠山の支配する土地だったので、義豊からしてみれば侵略というよりも失地回復戦のようなものだったと思う。
昨日の友は今日の敵、こうなってしまえば伊勢貞陸としても南山城にさらにテコ入れせざるを得ず、頼る相手といえば政元以外にいなかった。そこで派遣されたのが細川内衆香西元長と、赤澤澤蔵軒宗益だったわけである。
当然政元も慈善活動として両将を派遣したのではない。義材の逆襲に備えなければならない事情もあって、ある程度の実入りを期待して貞陸に協力したのであった。
余談ながら、義材方の逆襲に備えるために、まずは足許の山城を固めておかなければならなかったあたりに、当時の京畿周辺をめぐるドタバタの政情不安定が垣間見える。
明応五年(一四九六)二月、赤澤宗益は突如高野山に出奔する。その原因は不明であるが、おおよその察しはつく。敵方への侵蝕が行き過ぎて、禁断の寺社本所領押領に手を染めたのだろう。被害者たる寺社や本所からは、宗益の主人政元に対して押領停止が申し入れられたはずだ。
「お前のところの無法者をなんとかしろ」
この理屈である。
政元に叱責された宗益が、それでは戦えないとばかりに出奔したのが真相ではなかろうか。
前章にも記したとおり、京畿周辺で軍事行動を行う武家にとって荘園押領は宿命であった。
この後、政元の周辺では似たようなゴタゴタが頻発する。その原因を、政元の特異なパーソナリティに求める向きもあるが、人間が窮乏したときに見せる普遍的な行動パターンとして観察したほうがしっくりくる。どいつもこいつも、貧乏が行き過ぎて知恵が回らなくなってくるのである。
ともかくも一度は高野山に出奔した宗益だったが、その後赦免されて再び南山城で抗争を繰り広げていくことになる。和睦交渉が決裂した当時、京都では、義材上洛の風聞で持ちきりだった。
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