第十五話 義材公越中逐電之事
明応七年(一四九八)九月初頭。月明かりを頼りに西へと向かう十三人があった。夜盗
「京都を逐電された折もこのような闇夜でしたか」
声を潜めて木阿弥が言った。
「俺を見棄てて逃げた夜もこんなだったか」
そんな意味が込められているようにも取れるからだ。
「不満があるなら去れ」
かくのごとく一喝するなりして閑を与えても良かったのだが、京都逐電の折に見棄てて逃げた負い目や、敵地同然の京都から妹
義尹は平静を装って答えた。
「いや、あの時は酷い雨だった」
「そういえばそうでしたな」
ははは、と渇いた笑い。
「お静かに……」
吉見義隆が二人の他愛ない会話を制した。
ここで「義尹」なる人物が唐突に登場したが、お察しのとおりこれは
政変で追い落とされて以降、義尹が将軍還任を一貫して目指したのは歴史的事実だ。したがって、ともすれば消極的に描かれる本作中の義尹の姿は事実に反しているということになる。ただしそれは、物語としての面白さを優先して事実をねじ曲げたり、奇を衒って異なる解釈を披露したかったからではない。義尹の行動の端々に、義高に加える手心のようなものがちらほら見え隠れするからである。
家名や将軍位といった、両者をめぐる外的要因を捨象して考えれば、素の二人が争わなければならない理由はなんらないはずだった。
厄介なのは、ここに互いの取り巻きが絡んでくるからだ。
こういった連中はなにも、ボランティア精神で義尹や義高に奉公したのではない。当然のことながら、なんらかの見返りを期待して奉公したのである。もし雇用主が、これら被官人に奉公させるだけさせておいて
「俺は将軍なんかになりたくない。だから御恩はない」
こんなことを言ってしまえばどんな結果が待ち受けているか、想像するだに恐ろしい。
雇用主とすれば、勝敗いかんで自分の運命が変わってくるわけだから、たとえ嫌いではない相手に対してでも闘志を沸き立たせなければならない。
この時代、大名などが敵対者の死を願う願文を寺社に奉納する事例が散見される。現代と比較して宗教の力が強かった時代のこととはいえ、本当に神仏の力で敵を呪い殺せるなどと信じていたはずがない。これは、願文奉納によって敵との対決姿勢を明示し、家中に団結を促す政治的パフォーマンスであったのと同時に、無理やりにでも敵への憎悪を育み、闘志を沸き立たせる自己暗示の要素もあったのではないか。
義尹は、打倒政元に消極的だった
一行は夜陰密かに宿所を探し当て、払暁を待って出立した。五年前、上原元秀邸を逐電した際には水路を使った義尹であったが、今回は陸路であった。
前回の逃避行では、捕まれば殺されてしまう恐れがあった。政元にそんなつもりはなかっただろうが、富子の差し金で毒殺されそうになった直後のことだったから、少なくとも義尹の側では安全な逃避行だとは考えられていなかった。
だからこそ水難の危険をおしてまで水路での逃避行を選んだのであった。
今回の逃避行で追ってくる者がいるとすれば、越中の神保が想定された。神保の主人は
「それ、ご覧じろ」
案内のものが指差した。その先に昇る幾筋もの炊事の煙が、比較的低い山々にまぎれ消えてゆく。越前朝倉家の政庁、一乗谷であった。
思うに調斎(調理)とは、およそ畜生であれば決して行うことがない人間独自の行動であった。その意味で炊事の煙は人の営みの象徴といえたが、それは決して永劫続くものではない。その証拠に見よ、どれだけ激しく薪を焚いたとしても、立ち上る煙は、さほど高くもない一乗谷の山々の頂きですら越えることがないではないか。いくら上ったとしても山の中ほどあたりが精一杯で、あとは
まこと人間の営みは炊事に煙に似ている。それがどれだけ盛んであっても、遠からず天地にまぎれ、還っていくのである。
心を虚しうして投げやりになるのではない。儚いからこそ、むしろ尊いのである。
義尹はとたんに人恋しくなった。あの谷にどれだけの人々が暮らしているのかは知らぬ。また朝倉に命じてはやく上洛の軍を起こさねばならぬと焦ったのでもない。
そこにある人間の基本的な営みが尊い――ただそのように考えられたからこそ、歩みを速めたのであった。
一乗谷まであと一歩というところに現れたのは朝倉の侍どもであった。
「お待ち申し上げておりました」
侍どもはまるで、一行を一乗谷に立ち入らせまいとするように立ちはだかった。義尹一行が入れられたのは、一乗谷の外側、安波賀の含蔵寺であった。
もし朝倉貞景に、義尹を推戴して上洛する気概があるなら、有無なく義尹を政庁に迎えるはずであった。それを、一乗谷への入部すら許さず、その外側に留め置こうというのだから、貞景に上洛の意図がないことは、早くもこの時点で明らかだった。なんとなれば貞景は、冷遇もって上洛の意志なきを自ずと察知させるべく事を進めているようにすら思われた。
嫌いでもない義高との対決など、もとより義尹の望むところではなかった。歓迎しないというならそれで良い。
しかしあれだけ望んだ一乗谷に入ることができないというのは、義尹にとってはなんとも酷な措置であった。
他国にまで聞こえた一乗谷には相当数の人々の暮らしがあるはずだった。人々の暮らしがあるということは、それを支えるための市場があるということだ。将軍という地位に興味を失っていた義尹も、ここ越前に産する山海の珍味には興味があった。
(俺を推戴して上洛の軍を起こせなどとは求めぬ。ただ越前の珍味に舌鼓を打ちたいだけじゃ。ただそれだけじゃというのに……)
自身につきまとって離れない前将軍という肩書きを、呪わずにはいられない義尹なのであった。
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