第十二話 義高公将軍宣下之次第

 このように、情勢は和戦いずれに転ぶか判然とせず、政元は義高への将軍宣下を急がねばならなかった。

 世上では義高政権の正当性を疑問視する次のような声にあふれていた。

「武力で大樹をすげ替えるようなことがまかり通るとは世も末や」

「左様。そんなことが許されるんやったら、逆の立場になっても文句は言われへんっちゅうこっちゃな」

「えらいことしてくれはったもんや。下剋上の世のはじまりや」

 政変から既に二年近くが経過していたが、いまだ義高への将軍宣下は行われていなかった。これには、急激な昇任が凶例とされていたことや、そもそも義高側から朝廷に対して将軍宣下に必要な献金が行われていなかったという事情が絡んでいたのだが、うわさ好きの京童きょうわらべどもの手にかかれば、たちまち

「武力で前将軍を追い落とした義高様は主上に嫌われている。いつまでたっても将軍になられへんのはそのためや」

 このような外聞の悪い話に変貌を遂げてしまうから厄介だ。政元は、これ以上義高の将軍宣下を先延ばしにできなかった。

 政元の姿は、洛中に構えた自邸の敷地内にあった。

 見るからに重厚な造りの土蔵を前に佇む政元。傍らに控えているのは安富元家。細川家内衆の筆頭であり、政元が最も信頼する家老であった。

 政元は近習に命じて蔵の扉を開いた。外見からは意外に思われるほど狭い内部に、うずたかく積まれているのは緡銭さしぜにの束。義高の将軍宣下のために、今日まで政元が貯めてきた銭であった。

「どうしてもやらねばならんか……」

 明らかに気が進まない様子の政元。犬追物いぬおうものをはじめとする、種々の涙ぐましい活動で貯めた銭は、間もなく失われてしまうのである。決して自分のために使うのではない。他人の官位を買うために使うのだ。

「諦めるよりほかござらん」

 元家も言葉少なであった。

 守護在京制が華やかなりしころには、三管領四職をはじめとする有力守護が将軍に近侍していたことで、その命令を多人数で分担する素地があったが、応仁文明の大乱を機に、守護のほとんどが京都から消え去ってしまった。義尚、義材と続いた将軍は、外征によって擬似的な守護在京制を実現してみせたが、クーデターによって政権の座についた義高にはそこまでの求心力がない。強引に外征をぶち上げるのも手ではあったが諸刃の剣だ。もし誰も号令に従わなければ、かえって政権の致命傷になりかねなかった。

 このように、外征名目で守護を招集するに及び腰で、在京大名が細川だけとなると、義高を支えるのは政元以外にない。かつては在京する数多あまたの守護で分担していた負担が、ひとり細川のみにのしかかってくる構図だ。誰が好きこのんでそんな負担を背負い込むものか。

 しかし、それが嫌だからといって義高を捨てたならば、京都はあっという間に義材の手に落ちるだろう。そうなれば、復権した義材は政元討伐の軍を差し向けてくることは間違いなかった。

 政元が義材を追い落としたのは、河内派遣軍が細川領国である摂津の脅威になっていたからだ。義高を捨てて逃げれば、結局領国は脅威にさらされるのである。そんなことになってしまえば政変は無意味だったことになる。

 政元はいやでも義高を将軍に押し上げねばならず、銭は諦めねばならなかった。

 明応三年(一四九四)も暮れの十二月、いよいよ義高に将軍位が宣下されることとなった。将軍就任に先立ち、元服の儀が執行される手はずとなっていた。還俗以来、この日のために伸ばしてきた髪を結って、烏帽子を被せる「加冠の儀」である。

 儀式の会場である細川邸に招かれた公卿が満座に座するなか、義高が緊張の面持ちで上座に据わる。四半刻(約三十分)ほども経つころには、待機する公卿の間からざわめきが起きはじめ、義高の額にはびっしりと冷や汗の粒が……。

「いかが致したのじゃ」

「早う加冠の儀を執行せよ。できぬ事情があるなら伝えに参らぬか」

 人々があからさまに不満を口にしはじめたときには、既に半刻(約一時間)が経過していた。

 ようやく姿を見せたのは政元ではなくその近習と思しき若侍であった。

「申し上げます。主政元は生来の烏帽子嫌いゆえに今日も烏帽子を着用しておらず、かかるていでは加冠役はつとまらぬと申しておりまするゆえ、本日はお引き取り願いまする」

 このひと言で、満座に鬱積していた憤懣が堰を切ったもののごとくあふれ出した。

「これは前代未聞の沙汰!」

「烏帽子親が烏帽子嫌いゆえに加冠の儀を執行出来ないなど、古今例を聞かぬ!」

「そのようなことは以前から分かっていたはずじゃ。何故いまになってそれを申すか!」 分厚く塗った白粉ごしにも分かる怒りに満ちた公卿お歴々の表情。座を蹴って席を立ったのも無理のない話なのであった。

 人々の声に押されて政元がしぶしぶ加冠の儀を執行したのはそれより七日後の十二月二十七日のことであった。これにより元服を果たした義高に将軍位が宣下され、ここに幕府第十一代将軍足利義高が誕生したのである。

 儀式後、形ばかりの祝辞を述べる政元に義高が訊ねた。

「政元が烏帽子嫌いだったなど初めて聞いた」

「隠してございましたゆえに」

 成人男性が烏帽子を着用するのは、この時代では当然の習俗であった。もちろん個人の性向なので烏帽子が嫌いだった人間もいたことだろう。嫌いなら嫌いで別に構わない。

「だったら最後まで隠し通して貰いたかったものだな」

 少なくとも義高は、政元が烏帽子嫌いで普段からそれを着用していなかった事実を聞いたり、実際に目にしたことはなかった。要するに政元は、儀式執行による経済的負担を嫌い、愚にもつかぬ屁理屈を弄してそれに抗議の意を表明したかったのだろう。不満表明のダシに使われた義高にとってはいい迷惑だった。

「思うに今日のような儀式は人々の苦役ばかり重なって、およそ無益なものと存じます。たとえ大樹が烏帽子を被らなくとも、それがしは大樹を大人とお認め申す。従って今日のような無益な儀式は金輪際……」

 やめにしようではないか、と言う政元の言葉を義高は遮った。

「そんなことを言ってるのではない。そこもとには、余とともに手を携えて共に歩む覚悟はあるか」

「……」

「覚悟はあるかと訊ねておる」

 あれば「ある」と答えれば良いだけの話だが、それが言えない。

「余はそこもとに引っ張られながら、出たくない寺を出て今日将軍に昇った。そこもとのために、余はなんの恨みもないのに義材殿の敵にされてしまったのじゃ。なにひとつ余の望まなかったことじゃ。これから先、加冠の儀どころではない出費がそこもとにのしかかるであろう。全部そこもとが望んだことじゃ。以後、心懸けを改めてもらわねばならぬ」

 青ざめながら義高が言った。

 いくら

「将軍に昇ったのは自分の意思ではなかった」

 などと言ってみたところで、義高が義材陣営に敵視されていることは間違いないことだった。そして義高自身が望まなかった運命を強いたのは富子であり政元なのだ。それを、出費が嵩むからと今になって見棄てるなど、確かに許されることではない。

 今日元服を果たし、将軍に任官したばかりの義高はたしかに、急に強くなったわけではなかった。むしろ弱いからこそ政元に支えてもらわねばならなかった。好き嫌いで物事を左右されてしまってはたまったものではない。

 政元はそんな追い詰められた義高の心情に寄り添うべきだったが、

(小癪なる小童こわっぱよ)

 という憎悪がどうしても先に立つ。

 政元もまた、義高の将軍任官など本心では望んでいなかった。

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