第十一話 義材公政元御和睦之次第(二)
ただ、もしこの時の
「直ちに上洛軍を編成し、賊徒政元を打倒すべし」
と号令したとしても、実現は難しかっただろう。上洛軍の中核となるべき
越中御所の衆議は
「政元とは和睦。しかるのちに上洛」
という方針にいきおい傾いていった。
「それならば大枚はたいても異存ござらん」
そう言ったのは長誠だ。長誠からしてみれば、無為徒食の義材に食を提供しているのと同じ理屈で、政元と戦争するくらいだったら和睦のための交渉費用を負担する方が明らかに軽くて済む。そのうえで上洛を果たした義材が復権したならば、その立役者として名声や実利が期待できた。負ければ命まで失いかねない戦争に訴えるくらいだったら、失敗しても銭がなくなるだけで済む和睦は、長誠にとって、臨むに十分価値のある交渉といえた。
長誠は重臣倉川兵庫助一行に数千貫にも及ぶ交渉費用を与えて、政元のもとに派遣することとした。
義材からの和睦交渉の使者と聞いて大いに訝しむ政元重臣の安富元家。
「味方をさんざん殺してくれた神保の被官がいったい何用か」
そうなるのも無理のない話で、越中討伐軍が大損害を受けて逃げ戻ってきたあとのこととあっては、恨み重なる神保の被官と顔を合わせるなど、細川家臣としてはそう簡単にできることではなかった。そんな元家の内心を知ってか知らずか、倉川兵庫助は
「仰せご尤もです。これは主長誠からの心付けですのでどうぞお納め下さい。それがしはしばらく洛中に滞在しております」
とする書面とともに数十貫の礼銭を送ると、恨み骨髄に徹していたはずの元家からさっそく謝礼の手紙が届いたから現金なものだ。
倉川兵庫助は数千貫の資金をこのように各方面にばらまいた。
政元のもとには、たちまち
「前将軍との和睦の機は熟しております」
などとする献言があちこちから上がってくることとなった。
もちろん倉川のばらまいた銭は政元にも届いていた。これに加え、もし和睦が成立したならば、当時の社会常識から考えて、さらなる礼銭が支払われることになるだろう。
一族郎党を殺された悲憤を和らげるに銭に及ぶものはない。人々が窮乏している折とあっては尚更だった。
「和睦の好機到来とみるがどうか」
政元は召集した一族重臣に諮った。
もとより義材との抗争は政元の真に望んでいたことではない。それどころかこのころの政元は、貧乏な義高に代わって幕政を仕切っていかねばならない立場にあり、それこそが政元の望まぬ政治状況であった。
もし和睦が成立し義材が復権すれば、多額の礼銭が入ってくるうえに、重荷でしかない幕政を他の何ものかに背負い込ませることができるとあっては、この話、渡りに船のように思われる。
そこへ
「まさか銭に目が眩んで本当に和睦しようってんじゃないでしょうな」
釘を刺すものがある。
誰かと思えば細川政賢である。摂津中嶋の分郡守護をつとめ、累代右馬助を名乗ったことからその唐名である典厩の名で呼ばれた細川の重臣だ。そんな政賢が諫言に及ぼうというのだから、政元としても耳を傾けないわけにはいかなかった。
「聞こう」
「よろしいか。確かに我らは前将軍が憎くて挙兵したのではありませぬ。飽くまで前将軍が畠山政長の讒言に乗って河内出兵に及んだのが我ら挙兵の主要因。前将軍は決して主敵ではございませなんだ」
そのあたりの事情は政賢がいちばん通じている。河内派遣軍の圧力を最も身近に感じていたのが細川典厩家だったから当然である。政賢は続けた。
「しかしいくら憎からずなどと申してもそれは我らが勝手にそう言っているだけのこと。じっさい将軍の座を武力によって追い落とされ、のみならず危うく殺されかかった御身としてはどうでしょうな。そのような御仁を相手に果たして和睦など成立しうるでしょうかな」
義材毒殺の企ては政元の与り知らぬ話であり、直後に義材と会った際にも自らの口で釈明したことではあったが、しかしだからといってその釈明を義材が真実と理解しているかどうかは、その内心を覗き見ない限り政元には知り得ないことであった。表面上は政元の釈明を是としながらも、そのように振る舞ったというだけの話で、本心はどう考えているのか知れたものではないのである。
もし義材の入京を許したうえで打倒政元の旗を揚げられてしまえば、勝敗のほどはやってみなければ分からないだろうが、京都があっという間に混乱の巷に陥ることだけは間違いないことであった。
京都は政元の領国ではないのだから捨てて逃げても構わない、というわけにはいかなかった。政元の主要領国である丹波と摂津に近接したこんな要地に、敵の拠点ができるとあっては確かに看過できる話ではない。
さすがに一族の重臣とあって、政賢の述べる意見にはいっぽん筋が通っており目先の銭に目が眩むようなことがない。政賢個人の資質というよりは、他の被官人と比較して、それだけ細川典厩家に経済的余裕があったということではあるまいか。
もし政賢が、政元のように被官人の面倒を見なければならない立場だったり、貧窮に喘いでいたとしたら、それでもここまで真っ当な意見を言えたかどうか。
逆の言い方をすれば、政賢がいま言ったような当たり前の意見でさえ後景に追いやってしまうほど、政元も他の被官人も貧窮していたのである。
それまでは銭に目が眩んで和睦一辺倒だった一同、まるで酔客がひっぱたかれて素に戻ったかのように、誰も和睦を主張しなくなってしまったのだった。
いっぽう和睦交渉を進めていた穏健派に対抗して、強硬派も義材に直接訴えかけるなどして和睦交渉妨害に動いていた。
こういった各方面の思惑もあって、両者の和睦交渉は尻すぼみのまま終わることとなる。
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