第九話 復活之木阿(二)

 京都から遠く離れた越中において、兄妹は再会を果たした。思えば怒濤のような半年間であった。

 義材よしきが畠山政長らに担がれて河内正覚寺しょうがくじに着陣したのが明応二年(一四九三)二月下旬。四月二十三日には政元挙兵の凶報に接し、正覚寺が陥落したのは翌閏四月下旬のことであった。

 ここ越中正光寺に流れつくまでの間に、殺されそうにもなったし不慮の事故に巻き込まれてもおかしくない水運での逃避行を余儀なくもされた。

「何故このようなことになってしまったのでございましょう」

 兄将軍と再会した安堵感からか、よよと泣き崩れる祝渓しゅくけい聖寿しょうじゅ

 物心ついたときから人質同然の僧院暮らしを強いられ、同じ年頃の娘たちが恋にのぼせ上がっているのを尻目にしょぼくれた読経の日々。父兄の上洛により、やっと日の目を見たと思ったのも束の間、ある日突然殺気立った数多の甲冑武者に踏み込まれ、外衣とはいえ衣服をはぎ取られるの屈辱を味わった。

 転がり込んだ先の岩倉金竜寺ではいじめられこそしなかったものの、亡父義視に未だ恨みを抱く富子との共同生活に気苦労は絶えず、兄上のあとを追ってようやく、ようやくここまで……。

 あまりといえばあまりに過酷な運命ではないか。足利という家名さえ背負っていなければ、兄妹がこのような憂き目を見ることはなかったのである。それだけは間違いないことだった。

 上座の義材は出来るだけ見ないようにしていたが、下座には木阿弥もくあみ父子。兄妹の再会にわざとらしく涙を流している。同時になにか言いたそうでもある。

 ちらりちらりと木阿弥に向けられる義材の視線に気付いたものか、不意に聖寿が切り出した。

「こうやって兄上との再会を果たすことが出来たのも、すべて木阿弥殿のおかげ」

「お、お……おう、そうか」

 聖寿によれば、彼女が岩倉において窮屈な毎日を過ごしていたとき、突如木阿弥父子が訪ねてきたのだという。木阿弥は、詳しいことについてなにも教えられていなかった聖寿に対し、政元が挙兵し義材が失脚したことや、その後義材が何者かに毒殺されかかったこと、ある夜半いずこかに逐電し、その居場所が越中であることが分かったことを告げたあと、

「ともに越中へ参りましょう」

 と勧め、ここまでの旅費を全額木阿弥に負担してもらうことでやっと越中に参じたということであった。

「政元謀反よりこっち、収入が途絶えてしまいましたよってに、手持ちの銭を全部使ってようやっとここまでたどり着きました。すっからかんになり果てて、みすぼらしくなった旅装を改めることも出来ず、申し開きのしようもございまへん」

 将軍の妹に相応しからざる旅装を強いたことを詫びながらも

(ここまでくるのはタダではなかったんだぞ)

 言外に主張する木阿弥。

 彼ら同朋衆は、武士のように土地に根差して生活の糧を得ていたのではない。彼らにとっての主な収入源は、将軍への取次を求めてくるような人物から受け取る礼銭であった。

 側近が、権力者との面会を斡旋して謝礼金を受け取っていたのだから、現代の観点から見れば賄賂だ。謝礼の額によっては、依頼者に有利になるような口利きをすることも当然あっただろう。

 しかし当時はそれが当たり前だった。そして木阿も、決して私腹を肥やすためにそんなことをしていたのではない。アガリのほとんどを義材の政務に投じていたのである。それは、武士が与えられた知行から軍費を捻出し、主君に奉公するのとまったく同じ理屈であった。

 木阿弥が持っていた銭は、義材のおかげで稼ぐことが出来た銭だから、それを義材やその係累のために使うのは当然というのが当時の正当な理屈であり、事実木阿は兄妹再会のために有り金を全額使い果たして、ついに今日、すっからかんになってしまったのである

 その意味で、木阿弥はみごと責務を果たしてみせたと言って良い。今度は義材が報いる番であった。その方法は従前のとおり側近として身近に置く以外ない。もう嫌も応もなかった。

「これからもわしの身辺に近侍し、支えてもらいたい」

 心にもないことを言う義材。

「はい。義材様将軍還任のため粉骨砕身お仕え申す所存です」

 木阿弥の発した「将軍還任」のひと言に、怖気おぞけを覚える義材なのであった。

 さて越中御所を概観したここらあたりで、再び京都政界に眼を向けておかねばなるまい。

 献金額の不足によるものか、義高の将軍任官はこのころ遅々として進んでいなかったが、だからといって他に候補者があるはずもなく、幕府は義高を将軍に据える方針で進む以外なかった。

 政変のもうひとりの首謀者伊勢貞宗はこのころ、義高政権において訴訟沙汰を一手に引き受けている。縷々繰り返してきたとおり、この時代の訴訟沙汰には利権がつきまとうのが常であった。

 しかし『鹿苑日録』によれば、義高はこのころの貞宗について

「自分や自分の側近同様、困窮している」

 と述べたとされる。権力の中枢にありながらなぜ困窮するのか。

 以下はやや穿った見方になるが、もしかしたら人々は、謀反同然に権力を掌握した義高政権を懐疑的に見ていたのかもしれない。当時は権力者が交代するたびに契約関係を見直すのが当たり前だったから、義材政権に権利を認めてもらったような人々にとって、政変はいい迷惑だったはずだ。

 当時の人々が義高政権の正当性に疑問を抱き、義材復権もあり得ると考えたであろうことは当然であり(事実、後年そうなった)、そうである以上、義高に利権を認めてもらうことは一種の博打であった。正当性という面から政権の脆弱性を見透かされ、義材政権で割を食っていたような人々にすら、もしかしたら歓迎されてなかったかもしれない。

 貞宗が訴訟沙汰を一手に引き受けていながらなお困窮していた所以は、義高政権においては、政所に訴訟を裁いてもらおうという原告が激減したからではあるまいか。裁判沙汰といえば現代では裁判所において処理されるのが当たり前だが、そんなものがなかった当時は、公武寺社といったあらゆる権力が訴訟を裁くことがあった。訴え出る先が幕府政所でなければならない決まりなどなかった。政権の正当性に疑問符がつくとなると尚更だ。

「門前市を成す」の故事とはまったく逆の、義高政権の遠心力が垣間見える。

 そんな窮状に伊勢守家も無為無策ではなく、貞宗の子貞陸は、政変のどさくさに紛れて山城の一円支配を進めていく。ついに政所執事までが荘園押領という犯罪に手を染めはじめたのである。

 まさに「貧すれば鈍する」。

 足利家にとって、朝廷の守護者であることが政権のアイデンティティーだったはずだ。その主要閣僚が、あろうことか保護すべき朝廷の財産を臆面もなく押領し始めたのだから、幕府終焉は時間の問題であった。

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