第二話 義材公御弟妹之事

 義材が上原元秀邸を脱出したのは明応二年(一四九三)六月二十八日。翌二十九日には早くも越中放生津ほうじょうのつに到着したとされる。これは自動車や電車がなかった当時としては驚異的な速度だ。一行が越中に至ったルートは明らかではないが、水運を利用したことはまず間違いあるまい。

 一行は脇目も振らず琵琶湖南岸の拠点、大津港を目指したはずである。当時琵琶湖は京都へ物資を輸送する水運ルートを形成しており、湖上では引きも切らず廻船が往来していた。南岸の大津港から北岸の塩津港まで(約六〇キロメートル)はほぼ一直線であり、当時の帆船が四ノットから七ノット(時速約七・四キロメートルから約一三キロメートル)で航行したそうだから、トラブルさえなければどれだけかかっても八時間程度で琵琶湖を突っ切った計算になる。何事につけても自動化が進んだ現代の観点からすれば取り立てて速いようには見えないが、少し行っては山河に阻まれる陸路でこれに追いつくことはまず不可能だったに違いない。だからといって同じように水運を利用して追いかけたとしても、相手とほぼ同速で追いかけることになるだろうから、義材一行が止まってくれない限り追いつけないことになる。

 最難関の危険地帯ともいえる洛中を切り抜けた義材は、船上で揺られながらさぞ安堵したことだろう。

 一行は塩津港で上陸したあと、こんどは敦賀港を目指したはずだ。いうまでもなく海路を使うためである。

 塩津から敦賀まで約二〇キロメートルつづく塩津街道は、往古のむかしより敦賀港で水揚げされた北陸の物産を塩津港まで輸送するルートとして利用された街道であって、整備も行き届いており往来は比較的容易だった。

 敦賀に到達した一行は、能登半島沖を大きく迂回して海路越中を目指したものと思われる。放生津に到着した義材は神保じんぼ長誠ながのぶに迎えられ、正光寺しょうこうじを御座所と定めたのであった。

 その義材には心残りがあった。捨てて逃げてきた木阿弥父子のことではない。京都に残してきた弟妹たちのことだ。

 まずは維山いざん周嘉しゅうか

 彼は文明七年(一四七五)の生まれとされている。俗名は伝わっていないので単に「周嘉」と読んで説明することになる。以下ご承知おきいただきたい。

 周嘉は応仁の乱後、父兄の美濃下国に同行したらしい。

 再上洛後、周嘉は将来的な出家と、それに伴い伯父義政から慈照寺を譲られることが決まっていたとされる。慈照寺といえば晩年の義政が心血を注いで建築した東山山荘の別称だ。義政は自身の死後、山荘を寺院とするよう遺言していた。そんな寺を譲られることになっていたくらいだから、周嘉は義政に気に入られていたのかもしれない。

 しかし政変はそんな周嘉の人生に暗い影を落とすこととなる。義材方の拠点として、慈照寺もまた制圧対象に指定されたのである。しかし周嘉が寺を逐われることはなかった。慈照寺が、義材の政治拠点として利用された実績が無かったことが幸いしたのかもしれない。

 とはいえ政変は周嘉が出家して三日後に発生した。慣れない生活を始めたばかりのところに殺気立った甲冑武者多数が踏み込んできたわけだから、想像を絶する恐怖とストレスだったことだろう。

「なにが幸いなものか」

 そんな本人のぼやきが聞こえてきそうだ。

 ともかくも周嘉は、変後も変わらず京都に残ることを許されている。

 妹祝渓しゅくけい聖寿しょうじゅは通玄寺曇華院どんげいんに入寺した尼僧であった。生まれ年は確定的ではないが、応仁の乱の末期、文明八年(一四七六)ころではないかとされている。

 当時義視は兄義政と袂を分かって西軍に転じていたが、諸将の間に厭戦空気が蔓延しており、終戦工作は水面下で着々と進行していた。

 交渉は東軍有利のうちに進められていたから、終戦となれば義視が京都にいられなくなることが予想された。工作を主導していた富子は義視懐柔工作の一環として、まだ幼かった祝渓聖寿を通玄寺曇華院に入寺させたのであろう。当時の寺は聖域であって世俗が手出しできない場所とされていた。

「娘は人質として預かるが、身の安全は保証するので終戦に同意してほしい」

 といったところか。 

 義視義材父子は長享三年(一四八九)四月、美濃を出て再上洛を果たしているが、洛中に拠点がなかったので通玄寺曇華院に入っている。そこで暮らしていた娘を頼ったのである。このため通玄寺は、当時所在していた三条通りにちなんで三条御所などと呼ばれ、一時的ではあったが将軍御所として機能している。

 今回の政変は祝渓聖寿に苦難を与えた。将軍御所にもなったことのある曇華院が、洛中に所在する義材方の有力な拠点のひとつとして制圧対象に指定されたからである。曇華院を襲った政元方の兵は彼女を殺したり傷つけることこそなかったものの、外衣を奪う辱めを与えたとされる。こうして曇華院にいられなくなった祝渓聖寿は岩倉金竜寺の富子を頼ることとなった。

 何度も繰り返してきたとおり、晩年の義視は富子排除に動いている。所領や財を奪われた富子が、亡き義視に対して依然強い恨みを抱いていただろうことは間違いなく、そんな富子を頼らざるを得なかったのだから、祝渓聖寿の苦衷如何ばかりだったか。

 金竜寺において、彼女が富子から報復まがいのいじめを受けたなどとは伝わっておらず、「女の理論」で案外篤く遇されたかもしれないが、祝渓聖寿にとって金竜寺は、決して居心地に良いだけの場所ではなかったはずだ。

 最後に実相院じっそういん義忠ぎちゅうを紹介しておこう。

 義忠は文明十一年(一四七九)生まれとされているから、義視の美濃在国中に生まれた子であることがはっきりしている。彼もまた他の御連枝と同様、実相院に入寺させられ僧侶になった。

 ちなみにここまで三人が三人とも入寺させられており、御連枝入寺方針が徹底して貫かれていることに改めてお気づきいただけよう。

 政変当時義忠は十五歳の若者に過ぎず、また慈照寺同様実相院も政治拠点として機能した実績が無かったことから制圧対象に指定されることはなかった。

 それでも義忠が義材の係累であることに変わりはなく、政変の一報を得て恐怖におののいただろうことは想像に難くない。しかし兄維山周嘉がそうであったように、義忠もまた変わらず実相院に残留することを許されている。

 義材にとって弟二人は美濃在国中に苦楽を共にした間柄だったし、十年以上前に生き別れてようやく再会した妹がかわいくなかったはずがない。 

 京都を脱出する前にせめてひと目だけでも会っておきたかったが、先を急ぐ義材にそんな時間は与えられてはいなかった。 

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