第十五話 正覚寺脱出之次第

 明応二年(一四九三)閏四月二十一日、橘島たちばなじま正覚寺しょうがくじが激震に見舞われた。正覚寺陣に合流すべく北上していた紀州勢が、堺で待ち構えていた赤松政則によって撃破されたというのである。

 凶報を聞いて昏倒しそうになる政長。

 籠城は元来、後詰ごづめを前提とした戦術だ。どれほどの堅城を頼んだとしても、味方の救援がなければ城はいずれ陥落するものであった。

 こたびの河内出兵で攻撃対象とされた畠山基家の事例が逆説的にそのことを示している。当初基家は諸侯の軍勢を受けて各地で敗退を続け、本拠高屋城への籠城を余儀なくされていたが、政元の後詰を得、いまはかえって寄せ手に転じ、正覚寺包囲陣に加わっていた。後詰によって息を吹き返したかたちである。

 大勢は紀州根来衆の敗退によって決したといっても過言ではなかった。

 ただそうはいっても、こわめに訴えれば犠牲者が増えることになる。正覚寺包囲陣中では、籠城側に突き付ける降伏条件が話し合われていた。

「政長尚順父子及び葉室光忠の自害」

 畠山基家の主張は強硬であった。政長系畠山を族滅に追いやって、祖父持国以来打ち続いてきた御家騒動に勝利できる絶好の機会だったから当然といえた。

 ここで、簡潔を心がけながら畠山家の御家騒動について説明しておきたい。

 そもそもの発端は、畠山持国(一三九八~一四五五)が、時の将軍足利義教より下総結城家討伐を命じられ、これを拒んだことに始まる。怒った義教は、畠山の家督を持国からその弟持永にすげ替えた。

 しかし同年(嘉吉元年、一四四一)六月、義教は赤松満祐によって殺害された(嘉吉の変)。これによって復権を果たした持国は持永を殺して家督に復帰し、管領に就いて、従前にも増して権勢を誇ることとなる。

 その持国には庶子(義就)はあったが嫡男がなかった。義就を後継者に指名できなかったのは、母親の身分が低かったからだとされる。家格の下落を恐れた一部の家中衆が義就後継に強硬に反対したのだろう。持国は末弟持富を後継者に指名することを余儀なくされた。

 しかし持国は文安五年(一四四八)、持富後継の方針を突如撤回して、義就を後継者に指名しなおした。

 持富本人は兄の決定を従容として受け容れ、甥義就が畠山を継承した二年後の宝徳四年(一四五二)、静かに息を引き取った、とされるがどうであろうか。

 持富が義就との家督争奪戦に消極的だったのは事実だろう。それゆえに決起を促す家中の反義就派の声に応じようとせず、かえってそれらに殺されてしまったのではないかと思われてならないのである。重い腰を上げようとしなかった持富は支持者に見限られ、その子弥三郎、次いで弥三郎の弟政長が対抗馬に仕立て上げられた図式だ。

 以来畠山は義就系と政長系に分かれて、応仁の乱を経たいまも相変わらず争っている。

 畠山の御家騒動に対する将軍家や細川家の対応方針は明瞭だ。騒動の助長である。一つにまとまった畠山が力を持って自家を上回ることは望むところではない。

 とくに将軍家の対応は、或いは政長に肩入れし、或いは義就に肩入れするなど一貫性を欠いているように見えるが、対立を助長し畠山の弱体化を図るという意味では実は一貫しているのである。

 もとより政元も畠山の勢力回復など望んではいない。政元は正覚寺包囲陣の総大将安富やすとみ元家もといえに使番を派遣した。

「紀州勢が敗退したことで正覚寺陣の降伏は時間の問題となった。政長は降伏して自刃するだろうが、尚順だけは逃がそうとするだろう。もし尚順を発見しても、殺さずに見逃せ」

 もし基家が抗議してきたとしても、

「夜陰ゆえに見逃してしまった。申し訳ない」

 とでもいっておけばよいのである。地団駄踏んで悔しがるだろうが、悔しがらせておけばよいのだ。こたび色立ての本旨は畠山を一本化させることにあるのではない。政長系畠山を滅亡に追いやったとして、基家が今後にわたり政元に協力的であり続けてくれると信じるほど、政元はお人好しではなかった。

 正覚寺陣は、紀州勢敗退の報を受けて浮き足立っているところであった。意気軒昂だった政長も、ことここに及んでいよいよ覚悟を固めた様子に見える。

「後詰が来ることはもはやない。我らもこれまでであろう。小倅政元がいかに無道の者とは申せ、よもや大樹(義材よしき)を手にかけることはあるまい。大樹がご存命の限りは飽くまで近侍奉るのが我ら畠山のつとめ。そなたは再挙を志し、紀州を目指して落ち延びよ」

 目に隈をつくって疲れ果てた政長に促され、尚順ひさのぶは逃げた。式正しきしょうの大鎧を模した赤糸威あかいとおどしの具足を脱ぎ捨て、杣人そまびとに身をやつし、数名の供廻りに守られながら夜陰に紛れて逃げた。途中、包囲の細川勢に見つかって誰何すいかされる危機に何度も見舞われたが、追及はその都度不自然なかたちで打ち切られ、危急を切り抜けること一再ではなかった。

 尚順も愚かではないからうすうす勘づいている。今後にわたり基家と自分とを相争わせ、引き続き畠山の弱体化を図る政元のいやらしい策謀に。そうでもなければ十重二十重に正覚寺を取り囲む敵陣を突破できるはずがないではないか。

 しかしこれが策謀であろうが単なる敵方の過失であろうが、とにかくいまは、なんとか分国紀州まで逃げ延び再挙を図るしかない――。

 雨が降り始めてきた。雨粒は細かく、霧雨のように思われた。梅雨が始まったのだ。

 思うにこれから自分を見舞う運命は過酷なものになるだろう。父政長が半生をかけて築き上げてきた勢力は今日、瓦解したのである。これを建て直し、基家を撃砕したうえで義材を将軍に据え直さなければならぬ。感傷に浸っている暇など尚順には寸刻もなかった。あるのはただ

(基家、絶対にぶっ殺す)

 この復讐心だけであった。

 尚順の背後で鬨の声が響きはじめた。取り合い(城攻め)がはじまったのだ。尚順は一度として振り返ることなく、紀州への道を急いだ。

 さてその橘島正覚寺では、政長最後の戦いが華々しく行われていた。もとより大勢が決したうえは無駄な抵抗であり、政長も一廉の武士であれば、かかる無用の争いは本来避けるべきではあったが、それでも一戦を辞さなかったのは、攻め寄せて参ったのが政元ではなくその被官人、上原元秀と安富元家に過ぎなかったからである。

 上原はともかく、安富元家は先年義材が起こした近江六角征伐の先陣を務めながら、本営を奪われる失態を演じた人物だ。行政手腕に優れ、政元に信頼されてはいたが兵法には疎かったようである。その程度の人物にひとあおりされたくらいで易々と降伏できない政長の意地が、抗戦を選択させたのだった。

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