第九話 雑談之事(一)
ここで唐突ながら、当時の武家社会がどのような実相を呈していたか、現代社会の一端から垣間見ることにしたい。
なんのことか。
反社会的組織、いわゆる暴力団と、当時の武家の共通点について、である。
各都道府県公安委員会は、一定の要件を満たす暴力団を指定暴力団に指定することによって、資金獲得や事務所使用などといった様々な活動に制限を加えることができ、その指定要件は暴力団対策法で次のとおり定められている。
一、実質目的要件
暴力団の威力を利用して資金獲得活動
を行うこと。たとえば「俺は○○組のモ
ンや」などと暴力団の名を掲げて相手方
を畏怖させ、みかじめ料を脅し取るよう
な行為がこれにあたる。
二、階層組織性要件
その暴力団が、組長をトップに据えた
上意下達型の組織構成を形作っているこ
と。単に乱暴者が横並びの徒党を組んで
いるというだけでは、指定暴力団には指
定できないということである。
三、犯罪経歴保有者要件
その暴力団の指導者層に、暴力団特有
の犯罪経歴があること。
要約すると、指定暴力団とは
「一定の犯罪経歴を有する指導者層の支配のもと、暴力団の威力を行使することによって資金や財産上の利益を獲得することを目的とする反社会的団体」
であり、前記三要件が認められることによって、はじめて法定の各種活動制限を加えることができるようになるのである。
さてこのうち「犯罪経歴保有者要件」については、現代の価値基準によって判定される要件なので除外するとして、他の二要件については当時の武家社会と共通していることにお気づきだろうか。
いうまでもなく武家社会では、土地や財産をめぐる紛争が日常的に発生していた。個々の武士は、アスリートのように自己啓発や競技のために武力を保有していたのではなく、敵との闘争に勝利し、その財を奪うために武力を保有していたのである。
戦争は当時珍しいものではなかったが、武士が他者から財を奪う方法は、戦争よりもむしろ、自分が属する集団の名を借りた恐喝行為の方が広汎に行われていた。
長禄寛正年間(一四五九~一四六一)、天候不順が列島を襲い、大変な飢饉が発生した。食糧難や疫病のために地域社会が崩壊し、それによって住処を失った難民が京都に大量流入したとされている。八万二千もの餓死遺体が賀茂川の流れを堰き止めたのはこの時のことだ。
飢饉の折節、不足気味だったとはいえ京都にはまだ食糧が運び込まれており、難民はそれを追うようにして京都に流入したらしいことが分かっているが、いくら食糧があるからといっても、財を持たない難民に無償で食糧を供給するような社会福祉制度が当時あったわけではなく、人々はようやっと流れついた先の京都において、今度は自力で財や食糧を獲得しなければならなかったのである。
そんな後ろ盾を欠いた難民が頼ったのが武家だった。有力な武家と主従関係を締結し、その武名を借ることによって、畏怖した相手から銭や食糧といった資源を脅し取ったのである。いっぽう雇う側には、下っ端に名義を貸すことで資源を獲得させ、そのうちのいくらかを上納させる点にメリットがあった。
さらに遡るが、嘉吉の変(嘉吉元年、一四四一)の直後、将軍義教を討ち取った赤松家は分国播磨に下り、幕府に対して抵抗の構えを見せていた。その討伐を命じられたのが山名持豊(後の宗全)だ。
山名の被官人は赤松とのいくさに備え、土倉に押し入り、質物として預けていた武具を「借用」したという。
山名家といえば侍所頭人を勤めることのできる四職家のひとつである。その所掌事務は京都の治安維持から徴税権まで幅広く、極めて強大な権限を有していた。当時は播磨出兵の直前だったので、持豊は侍所頭人を外れていたが、とはいえそんな有力武家の被官人が荒々しく押し入ってきては
「わしらは山名のもんや。文句があるんやったら山名邸まで言いに来んかい」
こんなふうに凄んで質物を奪っていったわけだから、現代でいえば、自衛官や警察官が強盗に押し入ってきたようなものだ。取り締まる者もなければ訴える先もなく、土倉経営者は質物が持ち去られるのを指を咥えて眺めるくらいのことしか出来なかっただろう。
こんな具合で、飢えた人々は、なりふり構わず武家と主従関係を締結し、その一員となって、あらゆる機会を通じ資源を獲得しようとしたのである。不遇な境遇に生まれ育った者が社会になじめず、後ろ盾を得るため暴力団に身を寄せる構図に似ている。暴力団の威力を借りて獲得した資源につき、上納義務を負う仕組みまで、武家にそっくりなのである。
また現代の暴力団は、疑似血縁関係に基づいた階層組織を構成している。トップを家父長に擬し、頂点に据えることで、上意下達の組織を構成しているのである。武家も同じで、たとえば豊臣秀吉は天下統一の過程で各大名に羽柴名字を下賜し、疑似血縁関係を取り結んで一族化を図っているが、これは豊臣政権の独自政策ではなく、武家社会では伝統的に行われてきたことであった。徳川幕府でも、松平名字の下賜と疑似血縁関係の締結が行われている。
このように、武家社会が君主をトップに据えた上意下達型の組織構成を形作っていることについては、もはや多言を要しまい。
「現代の暴力団と当時の武家には共通点が多い」
この視点に立つと、当時の武家政権に、中央政府としての自意識があったかどうかすら疑わしく感じられてくる。
武家政権にとっての「
そして彼等にとってのもう一つの「政」、儀式の執行には、恐ろしいほどの金がかかった。一般に、幕府の政務一切を取り仕切った管領職については、三管領家(斯波・細川・畠山)がその座をめぐって争ったように理解されることが多いが、必ずしもそうではない。もちろんその時々の政治的局面によって管領の座が争われたこともあったが、ほとんどの場合、儀式執行の負担の大きさから忌避されたことは、あまり知られていない事実である。
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