第八話 政元挙兵之次第
今を遡ること約二七〇年前の承久三年(一二二一)、時の後鳥羽上皇は、幕政を壟断する執権北条義時討伐の綸旨を下した。義時の姉政子は、動揺する御家人を前に頼朝以来の恩顧を説いて鎌倉武士団の団結を促し、かえって上皇の軍を大いに破った承久の乱の顛末を、政元もよく知っている。
いま政元の眼前には、往時の政子もかくやと思われる御台富子の姿がある。
「本日ここに召集せしは他でもない、我が甥にして将軍
手勢を率いる政元や安富元家、上原元秀など名のある武将には既に知らされていたことであり、末端の実行部隊でもその噂を耳にしている者は多かったが、その実現が眼前に迫り、しかもどうやら自分たちの手に実行が委ねられているらしいと察してどよめく一同。
富子は続けた。
「その故は、義材殿は将軍の地位にあるをいいことに、
承久のむかし、尼御台(北条政子)は頼朝公への恩義に報いるべしと人々に説きましたが、皆々方が今日起つのは誰かひとりのためではありませぬ。無名の帥に駆り出され、草葉の夜露に渇きを凌ぐ諸侍を辛苦から救うため、延いてはそなたたち自身を救うために他なりませぬ。
私をはじめ貞宗殿、政元殿も、河内出征に先だち、大樹に御再考を促すこと一再ではありませんでしたが、みなの苦しみがその心を動かすことはなく、遂に今日、このような事態を招来したことは私の不徳のいたすところ。しかし私はその責任から決して逃げません。
将軍家の家長としてここに命じます。
ほしいまま振る舞って大樹御政道を乱す君側の奸を討ち果たして、無益の苦しみから人人を救い、上下の別なく泰平の楽を供にせん。
起つのです皆の衆。これは謀叛ではなくまた誰かのためでもありません。他ならぬそなた達自身のために起こす、これぞ義戦と心得よ!」
富子がよく通る声で言い終えると同時、困惑のどよめきが鬨の声に変わった。諸侍の雄叫びが、波濤となって政元の腹の底に響く。
もともと隠遁志向の強い政元だったが、父祖より代々受け継いできた侍の血は争えぬものと見える。こうやって具足に身を固め、諸侍に踏まれた大地から舞い上がる砂塵混じりの空気を吸うと、俗事の煩い事も、およそ武士らしくもないと自覚する愛宕権現への傾倒も、なにもかもを一瞬忘れることができるのである。
政元にとっていくさとは、死と隣り合うことを否応なく強制させられる漆黒の闇のようなものであった。その闇の中で、生き残るために算段を打ち、工夫を凝らし、息を切らせながらもがくことで見えてくるのは輝き――自らが望まぬ死を退けることで、急激に光を放って見える生の輝きであった。
いったい自分というものは、将軍や被官人の面倒を見るために生きているのでも、天狗になって空を飛ぶために生きているのでもない。
地面をせせこましく這いまわる蟻を踏みつぶそうとすれば、蟻は必死になって逃げ回る。踏みつぶすことを止めれば、また前々のとおりただせせこましく地面を這いまわるだけであった。蟻は何事かを成すために生きているのではない。死の恐怖を味わったからといって急に偉くなるわけでもない。死を自ら望まない以上、なんとかして生きるしかなく、そのための手立てを尽くしたから、結果的に生きているだけなのである。
思うに、これこそが最も純粋な「生の形」なのではあるまいか。
もし何事か成し遂げることが生の目的なのだとしたら、それを遂げた時点で死ぬのが自然ということになる。だが生き物は寿命が尽きるから死ぬのであって、それこそが自然な死なのである。何事かを成す成さざると生き死にの問題は別次元の話だ。
人間も蟻と同じであった。殺されそうになったとき、その死が自分自身の望んだものでもなければ、それに抗うのが普通であった。その結果生き残ったからといって、偉業の達成が約束されるわけではないのである。
生き残ったあとには死ぬまで続く生が待ち受けているだけであった。
死ぬまでの間に、何事か成そうとする者は成すであろうし、ただ漫然と生きようという者はそうするというだけの話であった。その是非を云々するのはおよそ無意味というべきであった。なぜならば蟻の例一つとってみても分かるように、生きようとする意志自体に意味があるという事実は動かしがたいのだから。
政元にとって、生の輝きを最も強烈に思い知らされるのがいくさ場であった
これまで幾度となく隠遁を口にしてきた政元が未だにそれを果たしていなかったのは、周囲の引き留め以外にも、そういったいくさ場の名状しがたい高揚感がどうしても忘れられなかったからに他ならぬ。
政元はいま、そういった戦場特有の高揚感に全身を委ねていた。
「まず手始めにわしが一派を率いて天龍寺に向かい、清晃殿を保護し奉り
政元はあらかじめ決めていた計画にのっとり、矢継ぎ早に命令を下していった。政元が采配を振るうと、
「応」
とばかりに駆け出していく軍兵。政元は手勢を率いて天龍寺香厳院を目指した。
どかどかと荒々しく踏み込む軍勢多数。その先頭に立つ政元ががらりと建具を開けると、普段身の回りの世話をしているのであろう
清晃の髪に関する物思いは一瞬で消え去った。政元の顔にカッと朱が差す。獲物を見つけたからではない。
(
権力闘争に巻き込まれることを恐れ、自ら望んで入ったわけでもない寺にしがみついて世俗から距離を置こうという清晃の姿が、天狗の修法に凝ってたびたび隠遁を口にする政元自身の姿に重なって見えたのである。
それは戦場特有の昂奮に身を置いていた政元が、いちばん見たくない光景だった。
政元は、させじと清晃にしがみつく喝食を蹴飛ばし、清晃の腕を掴んでむりやり寺から引き摺り出すと、遊初軒へと急いだ。
遊初軒は、先年義視によって破壊された
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