第五話 正覚寺陣中之事

 全国各所から集った諸侯の旌旗せいきがそこかしこに溢れかえる様は、さながら雲海を高みから見下ろすがごとき壮観であった。

 二年前の延徳三年(一四九一)八月、前将軍義尚の遺志を継ぐかたちで、義材よしきが近江六角討伐の軍を起こしたときには、


  惣而数万人也。(中略)常徳院殿御出陣ニ百倍也

   (『大乗院寺社雑事記』延徳三年八月二十七日条)


 と、その強勢を謳われたものであったが、今回の河内出兵もそれに劣らぬ大軍が集まった。呼ばれてもいないのに軍勢を引率して参陣する者が後を絶たなかったためだという。事実、幕府方の軍勢は主戦場の河内のみならず、隣国和泉にまであふれ出すほどだった。義材はさぞ満足だったことだろう。同時に摂津を知行していた政元にとっては、その巨大な刃がいつ自分に向けられてくるものかと気が気ではなかったに違いない。

 もっとも、呼ばれてもいないのに参陣する者がいたからといって、この外征が支持されていたとは直ちにはいえない。諸侯が続々と参陣している状況下において、呼ばれなかったからといって本当に参陣しない選択をすることは、現実的には難しかったはずだ。もし額面どおりに受け取る者があったとすれば、よほど政治的センスに欠けているか、将軍に対し逆意を抱いているかのどちらかだろう。

 義材は近江、河内と立て続けに討伐軍を起こしており、先ほど少し触れたが、次は越前朝倉家討伐が既定路線だったとされる。近江六角討伐で戦功のあった斯波しば義寛よしとおの願い出によるものだった。

 越前といえば、三管領家最高家格、斯波家累代の知行国だったところ、応仁の乱のごたごたの中、守護代朝倉孝景が主家を排して直接支配するようになった因縁の地だ。なので朝倉討伐も、越前の支配権をめぐる斯波義寛の私戦という位置づけになる。美濃から上京してわずか四年、政治経験に乏しかった義材が畠山政長や斯波義寛といった宿老の言いなりになって、外征にのめり込んでいく様子が目に浮かぶ。

 このように将軍親征が私戦の意味合いを帯びはじめていた当時、諸侯の間には、たとえ寺社本所領押領などの悪事に手を染めていなかったとしても、単に他家との利害関係から討伐対象に指定されかねない不安と恐怖が蔓延していた。不参陣を逆意のあらわれと解釈され、失点になることを恐れた多くの者が、嫌々ながら自主的に参陣した構図が垣間見える。黙示とはいえ強制性を帯びていたのだから、自主的に参加する者が多かったからといっても、河内出兵は人々にとってやはり迷惑極まりないものだった。

 なお、政元は基家討伐軍への参陣を拒否している。このあと政元がなにをするか知っている我々からすれば、さも当たり前の判断のように見えるが、ことの成否が明らかではなかったこのころ、不参加は政元にとっても相当に難しい判断だったに違いない。

 当時、総帥足利義材は橘嶋たちばなじま正覚寺しょうがくじ(現在の大阪市平野区)に本営を置いていた。大軍勢に守られて満足だったはずの義材の顔色が、いまはなぜか優れない。諸将が引きも切らず挨拶に訪れるものだから疲れを隠せないのか。

「ご気分が優れませぬか」

 上座の義材を気遣うのは此度こたび出兵の首謀者畠山政長であった。伯父持国の決定に端を発して五十年近く続いた御家騒動が、いよいよ自分の勝利で決着する目前とあって、その気遣いようは尋常ではなかった。もし義材の身を不慮の出来事が襲えば元も子もなくなるのだから、気遣いは当然のことだ。前将軍義尚が、六角討伐の陣中に没した記憶はまだ新しい。

「お体大事。木阿もくあ、侍医を呼べ」

 気色の優れぬ将軍義材よりも更に白く塗りたくり、表情が読めない顔で葉室はむろ光忠みつただが命じた。河内出兵に先立つ明応二年(一四九三)二月一日、光忠は義材の執奏により権大納言に任官を果たしている。葉室家はその権大納言を極官ごっかんとするから、任官自体は異例とまではいえなかったが、これは当時の人々を驚かせる人事だった。光忠は先の大乱において、父教忠ともども西軍総帥義視に与したからであった。

 天皇は一貫して東軍の立場だったから、乱後葉室家は失脚した。光忠は、義視義材父子に付き随って美濃への下向を余儀なくされている。その光忠が義材の将軍任官に伴って復権を果たし、順序を飛び越えてこのたび権大納言に任官を果たしたのだから、他の廷臣の顰蹙を大いに買ったものであった。

 そんな光忠が木阿と呼んだ法体の老人――木阿弥もくあみが、慌てた様子で侍医を呼びに行こうとする。法体といっても法衣ではなく素襖袴すおうばかま姿である。木阿弥も光忠同様、義視義材父子の美濃下向に同行した同朋衆どうぼうしゅうであった。

「よいのだ」

 侍医を呼ぼうという木阿弥を止めたのは義材本人だった。義材は続けた。

「なるほど心の裡に抱える不安は隠せぬものと見える。いかさま、政長の申すとおり気分は決して優れぬ。しかし体が悪いのではない」

「ではいかなるわけで」

 政長が問うと、義材は答えた。

「このところ頻りに政元謀叛の噂が聞こえておる。そこもと等も存じおろう」

「そのことなら心配ご無用」

 呵々と笑い飛ばす政長。天敵義就亡き後、先の大乱を戦い抜いた自信がその所作から滲み出ている。立烏帽子から覗く白いびんは、老いの弱さどころか累年重ねてきた政長の武功を誇ってさえ見える。政長は続けた。

「此度御出陣において綺羅星のごとき諸将が参集した所以は、大樹御威光のひとかたならぬ証拠。雲霞のごとき公儀の軍勢を前に、基家はおろか小倅こせがれ政元も恐れをなし、震え上がって身動きひとつ取れないものと見受けます。思うに我らの後背を衝くがごとき惑説を流すのがやっとなのでございましょう」

「大山崎に布陣する赤松と政元が頻りに遣り取りを交わしているそうではないか。両家の間で婚儀を取り交わそうと企んでいるとも聞く」

 赤松政則といえば先の大乱において、武神の権化のようだったあの山名宗全を相手に一歩も引かず戦い抜いた歴戦の大名であった。その戦歴を買われて交通の要衝である大山崎に配置されたものであったが、もしこれが政元に寝返ったとすれば、退路を断たれることになる。義材の不安はもっともだった。

 打って変わって政長はというと、それでさえさほどの大事と捉えていない様子である。あたかもこみ上げる笑いを堪えるかのようにして政長は言った。

「そ……その噂であればそれがしも聞いております。しかしご心配には及びませぬ。なんと申しましても龍安寺の洞松院尼とうしょういんにと申せば天下にその名を知らぬ人がない醜女しこめと聞き及んでおります。赤松殿ともあろう御方が、そんな醜女を嫁御に迎えねばならぬほど女性に飢えているわけでもございますまいに。ぷふっ……ぶははっ」

 悪口ひとつで死人が出るほどの闘争に発展しかねなかった当時において、本人がいないとはいえあるまじき暴言であった。大軍を頼む政長が、政元を舐めきっている証拠であった。

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