第三話 香厳院清晃之事

 挙兵に先立って、政元には会っておかねばならない人物がいた。香厳院きょうげんいん清晃せいこうであった。先に陳べたとおり清晃は、富子が当時住まいとしていた小川御所こかわごしょに迎えられる予定だったところ、義視の横やりが入ってかなわず、今も天龍寺塔頭たっちゅうのひとつ、香厳院にその身を置いていた。

 余談ながらこのころの足利幕府は、室町殿及びその相続人以外の御連枝ごれんしを入寺させる方針で臨んでいた。

 たとえば六代将軍義教はもともと義円を名乗って青蓮院しょうれんいん門跡もんぜきを継承しており、天台座主てんだいのざすにまで昇っている。その道を究めたはずの義円が還俗したのは、甥で五代将軍だった義量よしかずに先立たれ、兄義持もまた後継者を決めないまま死んでしまうという特殊事情が重なったためだ。また、ここまでたびたび登場している足利義視も、元を辿れば義尋ぎじんを名乗っていたところ、兄義政の隠遁志向に振り回され、将軍後継者として還俗させられている。もっといえばその義政も、兄で七代将軍だった義勝がわずか十歳で亡くなるという不幸さえなければ、慣例にのっとって出家が予定されていたのである。

 初代将軍尊氏は弟直義ただよしと激しく争い(観応の擾乱)、四代将軍義持は、出世街道を突き進む異母弟義嗣よしつぐを殺害(自害とも)している。また鎌倉公方は代を重ねるごとに独自色を強め、最終的には制御不能に陥ってもいる。御連枝を世俗に残し権力を握らせることが、必ずしも良い結果をもたらしてこなかったことは、こういった数々の歴史が証明している。京都五山を筆頭におく寺々は、御連枝を世俗から隔絶することで権力闘争を未然に防止するとともに、不測の事態に備えて将軍の予備を確保しておくシェルターの役割をも担っていたのである。

 もっとも、それとて権力闘争の防止策としては完璧とはいえなかった。なぜならば政元は今日、義材を将軍の座から引きずり下ろすことで自ら不測の事態を引き起こし、シェルターから引っ張り出してきた予備人材清晃を、新たに将軍として推戴することを決意したからである。

 これを権力闘争といわずしてなんというのか。

 香厳院において対面した清晃は、その神経質そうな顔を青く染めていた。今から始まる全てを理解している様子であった。その証拠に清晃は、声を震わせながらも機先を制するように、政元に対して次のごとく言ってのけたのであった。

「私は還俗する気はございません。先の小川御所の件で、世俗というところがどんなに恐ろしいところか私にはよく分かりました。私は殺されたくありません。どうぞお引き取り下さい」

 義視によって破壊し尽くされた小川御所は見るも無惨な有様だった。清晃はその様子を眺めながら、浅ましいなれの果てを我が身に置き換えたのかもしれない。

「次はお前をこのようにするぞ」

 義視の無言の恫喝を間近に感じもしたことだろう。清晃が世俗の権力闘争に恐れをなしたとしても無理はなかった。

 しかし政元は、そんな清晃に対して怒濤のごとくまくし立てた。

「そのようなわがままが通るとお思いか。清晃殿は下々の暮らしをご覧になったことはあるのか。今日の食にも事欠き、明日をも知れぬ日々をやっと生きている百姓ひゃくせいの民の暮らしをご存じなのか。そもそも御連枝が入寺し飢え苦しむことなき暮らしを保証されている所以は、一朝ことあらば還俗し大樹としての責務を果たしていただかんがため。諸侍を束ね、天下静謐を保つためでござる。

 それを、我が身ひとり安穏を貪るだけ貪り、いよいよ時節到来というその時になって、己が課された責務から免れようとするなど、そのようなわがまま勝手が許されるとお思いか!」

 正論だった。人々が将軍家に対して課役を果たしてきた所以は、その社会的責任を果たしてもらうためなのであって、享楽を提供するためではない。

 もっとも政元とて清晃の気持ちをまったく理解しないものでもなかった。できることなら、この煩わしく苦悩に満ち溢れた世俗のことなどすべて捨て去って、山河と混然一体、仙人のごとくなりたいという願いは、かえって清晃などよりも、自分の方が強いのではないかとすら思う。人々の手に届かぬところまで逃げるため、空を舞いたいと愛宕権現の法を学ぶほどだったから、清晃あたりと比較しても政元の方がよっぽど隠遁志向が強い。

 足利家の後継者問題など、ほんらい家長である富子自身の手で処してもらうべきことであった。伊勢貞宗が義材廃位を目論むのは、それぞれの父の代から続く確執が原因なのであって、政元にはまったく関係がない話だった。政元にとって義材が不都合だったのは、西軍総帥だった義視の血を引いていることと、細川京兆家の基幹領国である摂津にほど近い河内で軍事行動を起こしていることくらいだった。

 しかしそれでさえ細川京兆家という家から切り離された政元個人からすれば、なんの関係もないことだった。

 政元がいなくても、家中の者はきっと誰かしらを相続人に推し戴いて、家を存続させることだろう。個人の幸福追求よりも、家という集団の繁栄や存続が優先される時代だったのであり、将軍家だけではなく細川京兆家にも予備人材は確保されていた。

 こんな時代にほとほと嫌気がさす。ために政元が出奔を口にしたことは一再ではなかった。世間では変人呼ばわりされているようだが、どうせ家は誰かが嗣ぐことになるのだから、煩わしい世事など他人に任せ、自らは好きなように振る舞ってなにが悪い。

 だから清晃と政元は同じだった。その清晃に、家を嗣ぐように求めているのだから矛盾もいいところだった。

 政元の一瞬の逡巡を知ってか知らずか、十三歳の清晃は政元の迫力に気圧されながらも反論を止めなかった。

「なにも好きこのんで将軍家に生まれたわけではございませぬ。周りが勝手に私を寺に入れ、今になって勝手に責務を課そうとしているだけです。全て私の与り知らぬところで起こったことです。私は無理やり入れられた寺で静かに生きてきたのです。時節などそちらのさじ加減ひとつでどうとでもなるではありませんか。今さら私を騒動に巻き込まないでいただきたい!」

「子どもじみたことを言うな!」

 政元は子ども相手に暴言を吐いた。ことの成り行きを見聞きしていた老僧も見かねて

「お言葉が過ぎますぞ」

 と諫めねばならないほどだった。

「そなたらの教えが行き届いていないから心得違いをなさっているではないか! もう決まったことだ。つべこべ言うな!」

 政元は憤然、香厳院を去らねばならなかった。

(義尚さえ生きていてくれたならば……)

 義尚を理想のあるじだったなどと美化するつもりはない。贔屓ひいき偏頗へんぱが激しかったという意味では、政長偏重にひた走る義材と大差なかった。しかし義尚が将軍だったならば、少なくとも富子に見放されることだけはなかったはずであり、そうであれば将軍廃立のお鉢が政元に回ってくることもなかったのである。

(義尚さえ生きていてくれたならば……)

 政元の胸中を、詮なき繰り言が止め処なく去来していた。

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