第二話 御臺落涙之事

 岩倉金竜寺。隠居後の富子の居宅とされた寺である。明応二年(一四九三)春三月、細川右京大夫政元は、伊勢貞宗を伴ってここ金竜寺に富子を訪ねた。

「御台様におかれましてはご機嫌麗しう……」

 両名を代表して政元が型どおりの挨拶を口にしたが、富子は

「ない」

 静かにこれを遮った。そうだろうと思う。子に先立たれてご機嫌麗しい親などあるはずがない。

おもてを上げよ」

 促されて顔を上げる政元。上座の富子は、以前対面したときより少しやつれて見えた。永享十二年(一四四〇)生まれの富子は今年で五十四になるはずだったが、切れ長の涼しげなまなじりを黒々とした長い睫毛で飾り、高いとまではいえなくとも均整のとれた鼻梁と、紅をさしたような艶やかな唇とが相俟って、その姿は実年齢よりもずっと若く見えた。

 こうやって改めて見ると、先代義尚と富子との血のつながり、将軍家の血統というものを否応なく見てとることができる。とにかくその面立ちが義尚にそっくりなのである。

 政元はためしに頭の中で、富子の被る袖頭巾そでずきん引立ひきたて烏帽子えぼしに、着している法衣を、桐唐草きりからくさ模様をあしらった赤地金襴あかじきんらん直垂ひたたれにそれぞれ置き換えてみた。

 鼻につんとした軽い痛みが走って、熱いものが胸にこみ上げてくる。六年前を思い出す政元。

「寺社本所領押領を繰り返す近江六角を討伐し、いにしえの秩序を回復する」

 これが、幕府第九代将軍足利義尚が掲げた理想の政道だった。当初政元は京都の守りを命じられ、討伐軍への参加を許されず、悔しい思いをしたものだったが、その苦い思いと共に、奉公衆を伴って華々しく出征した義尚の勇姿は、今でも忘れられないほど鮮烈に、政元の脳裡に焼き付いていた。

(義尚様がもし今日までご存命であったならば……)

 亡き義尚への思いが胸に迫る。無意味な繰り言かもしれない。今この時ばかりはそれも許して欲しいと思う。悔やんでも悔やみきれない思いは、富子とて同じのはずだった。

 近江出征を実行に移した義尚は、それから約一年半にわたって当地に在陣しつづけた。甲賀の山中に逃げ込んでゲリラ戦を展開する六角高頼を打倒しきれなかったため引くに引けなかったなど、義尚を無能と嘲うかのような論調は現代もあるが、そういう話ではあるまい。このころ大御所義政は、将軍義尚とは個別の権力を厳然として保持していた。そんな父に対し義尚は、主要な幕閣を近江に連れ出すことで義政執政の無力化に成功し、近江において疑似的な守護在京制を再現して見せたのだから、勝った負けたの二元論で評されるべき話ではない。近江に在陣しつづけることが義尚政権のアイデンティティーだっただけで、敵を倒しきれず長期在陣を余儀なくされたなどという評はおよそナンセンスだ。

 その義尚を凶事が見舞った。陣中に病を発したのである。

「病身の義尚に代わって義視義材父子を呼び寄せ総大将に据える。義尚は京都に帰し療養に専念させる」

 このような建議もなされたが、父子の出立が遅れたので、残りわずかだった義尚の命数に間に合うことはなかった。義尚は治療の甲斐なく陣没した。享年二十五だった。その若さゆえに、悔やんでも悔やみきれないのである。義尚早逝の原因に、義視父子の動きが鈍かったことを挙げる者はいまも多い。

 その義尚が逝ってからまだ四年しか経っていなかった。どうして富子の機嫌の麗しい道理があろう。

「いかがしましたか政元」

 愁いを湛えてなお透きとおった富子の声が、政元を白昼夢から引き戻した。

「は……はい。本日は此度こたび合戦につき、御台様の御意見を賜りたく罷り越したものにございます」

 ああ、そのこと……。

 静かに呟く富子。

「いろんな人々から頼まれ事をされて困っているのです」

「頼まれ事……?」

「先代の御遺志だった近江出陣はやむを得ないとしても、河内出兵だけは納得いかない。我らは政長の被官ではない。御台の力でいくさを止めて欲しい。そんな頼まれ事です。でも義材殿が私の言うことを聞いていくさを止めることはございますまい。人々の心が大樹(将軍)から離れようとしているのです。困ったことです」

 義尚没後、将軍に昇った義材もまた、六角討伐による寺社本所領回復を旗印として近江への出兵を実施している。これは社会正義の実現として人々に喝采され、それだけに諸大名も反対しづらい戦役だったが、近々予定されている河内出兵にそのような大義はなかった。

 河内における主敵は畠山はたけやま基家もといえであり、その父は応仁の乱の原因を作った張本人、畠山義就よしひろであった。義就は既に物故していたが、その義就と激しく争って同じく大乱の原因を作り出した畠山政長は、足利義材を支持し、その寵を得て、いまは幕府宿老として権勢を振るっている。それを良いことに政長は、宿敵義就の子、基家の討伐を願い出て了承されたのである。

 これでは誰が見ても政長の私戦だ。

 将軍の命令なのでしぶしぶ従っているだけで、みな内心では戦いを嫌がっていた。富子に内密に戦役中止を訴えていることがその何よりの証拠であった。

「政元」

「ははっ」

「今こそ我が不明を恥じます。もとより義材殿は我が甥。ゆえにそなたの訴えを退けてまでも、大樹たるべしとお迎え申し上げましたが、政長ひとり引汲いんぎゅうして人々の怨嗟えんさに気づきもせず、あまつさえ公儀の干戈かんかわたくしせんとしているとあってはもはや見過ごすわけには参りませぬ。私には夫亡き後の足利を支える義務があります。奉公衆、奉行衆の向背なら心配に及びませぬ。彼等のうちで私がひと声発すれば従わぬ者などよもやおりますまい。

 政元、兵を……兵を挙げよ政元。義材殿を廃して新たに将軍を奉り、人々を苦役から救うのです政元」

 もしも応仁の大乱さえなければ、自身の血を引く男児が生まれようが生まれまいが、義政は約束どおり弟義視に将軍職を譲るつもりだったという。約束を果たそうという義政の意志は乱後も変わりがなく、失脚してそれができなくなった義視の代わりに義材の将軍就任を強く推したのは、富子よりもむしろ義政の方だった。僧籍にあって平穏な日々を過ごしていた義視を、強引に世俗へ引き戻した負い目がそうさせたのである。

 その意思決定の当事者で今も存命なのは富子だけになっていた。義材擁立の主たる決定権者は義政に違いなかったが、義政の死を言い訳に責任から逃れるをよしとせず、真正面からこれを受け止めようという富子の態度は、政元を感動させた。

「なぜ泣くのです、政元」

「申し訳ございませぬ、常徳院殿(義尚)さえご存命ならばこのようなことには……」

 子に先立たれた親の前で口にすべきことではなかったかもしれない。しかし政元の偽らざる心境であった。

「申すでない」

 御台の声もまた、涙に揺れていた。

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