政元地獄變!

@pip-erekiban

第一章 明應之政變

第一話 貞宗政元面会之事

 いずこからか舞い来たったヒヨドリが一羽、三尊の庭石にとまってひとしきりさえずったあと、またいずこかへと飛び去っていく様を、対面所に座しながらじっと見つめるひとりの老人。

「ええ季節になりましたなぁ」

 ことさら呑気を装うこの老人――伊勢いせ貞宗さだむねに対し、政元は決して心を許してはいなかった。その狡猾な性質を物語るように普段は吊り上がっているまなじりを、今は不自然に垂れ下げながら、季節の話題から入ろうという老人の迂遠なやり方を、政元は憎んだ。

 そんなことをしなくても本題は既に知っている。将軍をすげ替えろというのである。

 親子ほども年の離れた貞宗に対して、生年二十八にすぎぬ若い政元は、事情を知らない者からしてみれば、ぎょっとするほどうんざりしたような物言いで

「余計な話は不要でござる」

 話だけは聞いてやるからさっさと本題に入れ――と、先を急かしたのであった。

「然らば……」

 話が早いとばかりに開き直る貞宗。目尻はいつの間にか元のように吊り上がっている。尖った顎先を傲然と突き出しながら貞宗は言った。

「将軍をすげ替えなされ」

 そらきた、思ったとおりだ。

 貞宗の言う将軍――足利あしかが義材よしき。その父は足利義視よしみであった。

 義視といえば先の大乱(応仁の乱)で兄将軍義政を裏切ったあげく西軍に転じた、謂わば敵の首魁だった人物だ。西軍は最終的には屈服し、たとえ名目上のこととはいえ、乱は東軍の勝利に終わったはずだった。にもかかわらず西軍総大将の血筋に連なる義材が将軍になれるというなら、いったいあれはなんのための戦いだったのか……。

 貞宗のことは気に入らないが、この意見自体は政元も無下に退けられないものだった。政元の父勝元は、将軍義政に代わって全軍の指揮を執った東軍の実質的総大将だったからだ。たしかに大乱は東軍の勝利とされたが、西軍を軍事的に撃滅できたわけではなかった。勝利したはずの細川京兆家が得た利益はほとんどなく、勝利者としての名誉だけが唯一の戦利品といってよかった。

 敵から領土を切り取ることができたわけではなかったので、被官に与えてやれる褒美も当然なかった。主君のために十年以上にもわたって戦い続けた細川被官人どもは、アテにしていた褒美をもらうことができず、いよいよ窮乏し、彼等の間にはいつ弾けてもおかしくない不満が溜まりに溜まっていたのである。西軍総大将の血を引く義材の将軍任官は、そんな苦しい台所事情に悩まされていた細川京兆家から、勝利者の名誉すら奪いかねない屈辱的な政治決定といえた。

 むろん政元もこの決定に対して無策だったわけではない。

 先代義尚よしひさが子をなさぬまま若くして陣没し、後継者問題が浮上したとき、義材を推す御台日野富子に対して政元が推したのが香厳院きょうげんいん清晃せいこうであった。義政の庶弟足利政知の子である。

 義政によって関東に派遣されていた政知は、大乱中は京都にいなかったので、戦いの当事者にはならなかった。また乱後に生まれて東も西も関係なかった清晃が将軍に就任することは、大乱の関係者が多数存命していたこのころ、政元だけではなく、幕府全体から見ても有形無形の利点があると思われたが、結局富子の推薦が決定打となり義材が将軍に任官している。

 しかしそれが不満だからといって、臣下の者が主君をすげ替えるというのはいくらなんでも飛躍が過ぎよう。

 政元は身を乗り出して、貞宗を睨みながら訊ねた。

「それがしが兵を挙げるとして、そこもとは如何なさるおつもりか」

 俺にばかり危険を背負い込ませて、謀叛を勧めたお前はいったいなにをどう負担するつもりなのか。

 その首をすげ替えろというくらいだから、貞宗も政元同様、義材の将軍任官に反対の立場だった。そもそも貞宗の父、伊勢貞親さだちかは、義政の後継者と目されていた義視に対し、大乱直前の文正元年(一四六六)、その排除を目論んで、「義視謀反」を義政に讒言した経歴があった。この事件が、のちに義視をして西軍に転じさせる伏線になったのであり、貞宗には現将軍義材から疎んじられる心当たりがあったというわけである。

 政所執事まんどころしつじという幕府要職を担う伊勢家であったが、国単位の分国を知行しているわけではなかったので武力には乏しい。貞宗がしきりに政元を誘ったのは、政元に義材排除の実行を担わせようとしたからだ。

(俺を利用するだけしておいて、お前は高みの見物か)

 政元が渋ったのも無理はない。挙兵に及んだとして、成否の見通しは現時点で困難だったが、上手くいこうが失敗しようが、政元が畠山政長、尚順ひさのぶ父子に代表される義材派の幕閣から激しく敵視されることは間違いないことだった。

 いくら

「首謀者は伊勢貞宗であって、自分は実行部隊に過ぎない」

 などと言ってみたところで、せいぜい貞宗が殺されるだけで、それと引き替えに政元が赦免されるなどあり得ない話と考えねばならなかった。挙兵したが最後、好むと好まざるとにかかわらず政元が争乱の当事者に躍り出ることは間違いがなく、将来の危険を考えると、いくら一網打尽の好機といっても、挙兵などおいそれとできるものではなかった。

「高みの見物を決め込むとでもお思いかな?」

 貞宗の言葉に一瞬どきりとする。たったひと言ふた言のやり取りに過ぎなかったが、どこかで考えていたことが口を衝いて出たのではないかと焦る政元。

 貞宗は続けた。

御台みだい(日野富子)も賛成でござるぞ」

「はぁ?」

 馬鹿を言うなと思う。御台が義材擁立に動いたから、今こんなことになってしまっているのではないか。

 たしかに御台が晩年の義視と不和に陥ったことは政元も知っている。義尚死後、富子は義材を将軍に推しはしたが、だからといってその対立候補だった香厳院清晃を排除することはなかった。それどころか富子は、清晃を自らの居館だった小川御所こかわごしょに住まわせると宣言したのである。小川御所は、元来細川勝元の邸宅だったものを、大乱で室町御所が焼亡したのに伴い前将軍義尚の御座所としたものであった。

 これに激怒したのが義視だ。

 この時代、権力者の在所はその象徴とされたから、清晃が小川御所に入るということは、清晃が義尚の権力を引き継いだものと見做されてもおかしくなかった。

「将軍邸だった小川御所に清晃を入れるとはどういう了簡だ」

 怒った義視は小川御所を破却する暴挙に出た。それだけでなく、富子主催の猿楽を中止に追い込んだり所領を没収するなど、義政亡きあと寡婦となって後ろ盾をなくしていた富子をいじめ倒して、ついに隠居に追い込んでしまったのである。

 その義視も一昨年(延徳三年、一四九一)正月、病没してしまっていた。富子が恨みを向けるべき相手は義材だけになっていた。とはいうものの政元が富子本人から直接意向を聞いたわけではない。

 政元は富子の真意を確かめなければならなかった。

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