#3 わたしはいいって言ったのに

「――んぱーい起きてk」

「んぁ、うん、今起きるから……」


 月曜日。

 昨日のような戸惑いもなく、俺は彼女を制して起き上がる。


「おはようございます、ゆう先輩♡」

「ん、おぁよ……」


 床にひざをついてベッドに身を乗り出し、満面の笑みを浮かべる彼女に、俺は寝惚けた挨拶を返す。


 言葉にしてみれば、ただそれだけのことだけど……確かに満たされる何かが、そこにはあって。


「いま朝ごはん分けるっスね」

「や、俺もやるから」

「いいっていいって~」


 ぼさぼさの頭を掻きつつフローリングに降り立ち、キッチンに向かう彼女の満足そうな表情をぼんやりと見つめる。


「? どうかしたっすか?」

「え? あ、いや……」

「ふーん……」


 言葉を濁した俺に、彼女は近づいて覗き込むように目を合わせて――


「――じゃ、お目覚めのちゅーはいかがっすか……?」


 ほんのり色づいた彼女はいい匂いがして、その唇を、俺は無意識のうちに受け入れていた。


「……なにしれっとちゅーしてんの?(呆れ)」

 同居(実質)二日目にしてなかなか進んでんな、俺たち。


「あれ、イヤだったすか?」

 素なのか惚けてか、遥はどちらともつかない感じできょとんと小首を傾げて。


「一回じゃ足りないかな?」

「じゃ、もっかいしましょ……♡」

 告げて彼女はこちらに腕を回し、ちゅー……♡と唇を合わせた。



     *


 朝の身支度がある彼女を家に残し(間取り的に専用の部屋がないのだ)、俺は一足早く家を出る。


 去り際一瞬、目が合って――


 はっとしたように笑顔を作った彼女が手を振るのが見えると、俺もまた笑顔で応じて、扉を閉めた。



 共用スペースの階段を降り、駅を目指す。


 路地裏から住宅街に出て、コンビニを二軒素通りし七分ほどを歩けば、地元商店街を抜けた先に駅舎が見える。


 スマホを自動改札機にタッチし構内へ。

 ホームに上がると、同じくタッチ決済で青色のエナドリを購入し、買った自販機の隣で早々に翼を授かる。今日はバイトだ。一日が長い。


 空き缶はゴミ箱へ。乗車待ちの列に並ぶ。


 まもなくやってきた十両編成の列車に乗り込むと、俺はまだ空いていた席の一つに腰を下ろし、肩越しに窓を見た。


 俺はふと流れる景色の中に、記憶の糸が巻き戻っていく。

 思い出すのは、講義室で交わしたやりとりのこと――。



『――あ、こんにちは諫早先輩。……まだ誰もいないっす。少し、お話しませんか』


 昼休み、小講義室。


 微睡を誘うような暖かな空気、とんとんと隣を促す、黒髪の少女――。


『――ゆう先輩、でいいっすか? 改めて聞くと、可愛いお名前ですねっ』


 週に一度。

 講義が始まるまでの、ほんの少しの時間。


 でも会うたびに心の距離は縮まって――

 いつしかその表情は、自然な笑顔に変わっていた。


 だから、


『――好きっす、先輩のこと』


 ――その言葉もまた、聞き逃してしまいそうなくらい自然で。


『――ちょっとだけでも先輩のお心の中にいられたら、それで十分ですから……彼女さんのこと、大切にしてあげてくださいね』


 瞳を細めて告げた彼女の気丈な微笑みが、心に焼き付いて、離れなかった。


 ――――――――

 ――……


 電車を降り、少し晴れ間が覗いた空を見ながらいつもの方角へ歩いていくと、大学の正門の前で、俺は見知った顔に出会った。

 普段から付き合いのある、学部の男友達である。

「おはよう諫早。……なんかあったか?」

「え?」

「いや、難しい顔してっからさ」

「……別に」


 どうやら俺は表情に出るタイプらしい。

 深く詮索されないようなるべくフラットを心がけながら、俺は友人と合流し、講義棟へと続くキャンパスの大通りを歩き始めた。



     *


 ゆう先輩が寝ていたベッドにぐったりと背中を預け、白色の天井を見上げる。


「なんでしてくれなかったんだろ……」

 わたしはいいって言ったのに。


 一人自らを慰めたあとの、虚無な感情。

 外は曇っているのか、部屋の中を生温かい空気が漂って、知らず額に滲んだ汗に、ぺたりと前髪が貼りつく。

 

『じゃ、もっかいしましょ……♡』

 ――わたしはあの時、彼にキスをして。

『ん……』

 でも、唇を重ねるうち、身体が芯から、熱くなって――

『――はぁ……♡』

 酸素を求めて離した口元から自分じゃないような声が漏れた瞬間、

 ――わたしは彼を、誘惑した。


 口づけて、彼のを触って、彼の指にとろとろに溶かされて。


 でも結局……そこに挿入れてくれることは、最後までなかった。



 彼なりの優しさとかけじめなのだと思う。

 わたしが伝えた気持ちを、真剣に考えてくれてるんだと……肌で感じる。


 でもまだ名前のないこの関係に、甘えるわけにはいかないから――


 出発しよう。


 そう胸に念じて、わたしはベットから起き上がる。



 シャワーを借り、汗を流して。

 肌着を身につけメイクをすると、いつもより化粧ノリがいいような気がした。

 なかなか現金にできているらしい。


 パーカーをかぶり、ピアスをつけて。

 リュックを背負い扉を開ければ、雲の隙間から太陽が顔を出して、出迎えた陽光の眩しさに、一瞬目を眇める。


 ――悩んでも仕方ない。


 そう言い聞かせてわたしは、預かったスペアキーで部屋の鍵を閉めて、駅への道を歩き出す。


 スマホを取り出して、メッセージを打つ。


 ありがとう、ってのも違うような気がするけれど……まぁいっか。


 わたしはわたしのできることを、やっていこう!



     *


 講義棟に向かいながら友人と雑談し、


(プルルっ♪)


 ふとスマホがRIMEのメッセージ着信を告げて、俺は端末を取り出す。


 画面に通知。名前は案の定の相手。

 実家で飼っているのだろうか、三毛猫の写真のアイコンと、それと並んで、短いメッセージが一行。


ハルカ『さきほどはありがとうございました


 ……っス』


「ありがとう……か」

 感謝されるのもなんだか気恥ずかしい気がするけど……まぁいっか(適当)



 通りの中ほどまで来たところで、突然友人がびくっと肩を跳ねさせる。

「……ぁ、、い、諫早、飲み物買わね?」

「ん? あー俺コンビニで買ってきたわ」

「じゃ、手洗い行こう!」

「じゃってなんだよ、急にどうした?」


 遥への返事を打つ手を止めてスマホをしまい、友人の不可思議な言動に苦笑して前を向くと、


「あ、」


 向かいから歩いてきた女子学生が声を漏らす瞬間に目が合って、俺の足が止まる。


 後ろから友人が「あちゃぁ……」と零す声が聞こえた。


「お、おはよ、諫早くん」

「えっ、、ああ、おはよう……」


 こちら向きに歩いてきた華やかな女子学生。

 ついこの前まで付き合っていた……俺の前カノだ。

 『俺の』だなんて、いまさら偉そうにいえた義理もないが。


 隣の知らないイケメンがきょとんとした顔をして、

「知り合い?」と彼女に尋ねると「うん、まぁ」と苦笑する。


 口元に当てた手には、プラチナのリング。

 はーん、そういうことね……


「じゃ、私用事があるから……またね、諫早くん」

「ああ――さよなら」


 前カノは笑顔で告げて目線を右にそらすと、イケメン君の腕を取りこちらとすれ違う。


 たっぷり間を空け、正門を出ただろうタイミングで振り返り友人に目配せすると、俺は「あーぁ、」とわざとらしく苦笑し、ため息をついた。


「……ごめんな、諫早。伝えるべきかわからなくて」

「いいよ、気にせんで。むしろ吹っ切れた」


 言葉の最後に右に視線をずらすのは、嘘をつく時のあの子の癖だ。


 『またね』が嘘なら、『もう関わらないで』、か。それが彼女の選択なら、それを受け入れよう。

 ――俺も遠慮なく、次に進めるからな。


「、、あー諫早。まーなんだ、元気出せよ。昼飯くらい奢るからさ」

「マジ? じゃぁビーフシチューがいいな」

「なんか全然傷心してなくね⁉︎」



 ちなみにその後、俺は遥にRIMEを返した。


諫早『今日はほんとすんませんした、、」

ハルカ『たぶんお互いスイッチ入りやすいんで、気をつけましょうね。。。


 ――先輩のえっち……♡』



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