第36話 ひよりはもう、俺の傍に居てくれない(仁秀視点)
――この週末は最悪だった。もうそれ以外のなんでもなかった。
本当に最悪だ。俺は深く傷付いた上に多くのものを失って、最低で最悪な気分にさせられた。
あの日、先輩たちと西高の女の子との合コンに出かけた日、その途中でひよりと出くわしたことが地獄の始まりだった。
神様が俺たちにやり直す機会を与えてくれて、この遊びの中であいつの機嫌を直すことができたらまた元通りの関係になれると、そう思った俺の希望に満ちあふれたあの気持ちを返してほしい。
微笑んでくれたのは神様じゃなくて、悪魔だったってことを俺はその直後に知った。
あいつが、ひよりが……尾上とあんな関係になっているだなんてことを思い知らされるだなんて、考えもしなかった。
名前で呼び合う親密な関係。異様なほどの急接近具合。俺への冷めた態度。そして……同じシャンプーの匂い。
ヤったんだ、あいつら。俺ですら二奈とまだそういうことすらしてないのに、あいつらはもうセックスをしやがった。
ひよりは、俺の彼女は、幼馴染は……尾上の奴に寝取られてしまったんだ。
その事実を突きつけられた俺は、合コンどころじゃなかった。
西高の女の子たちと合流しても頭の中はひよりと尾上のことでいっぱいで、それ以外のことは何も考えられなかった。
気が付けば……合コンは終わっていて、女の子たちも帰ってしまっていた。
俺は全く覚えていないのだが、先輩たち曰く、俺が女の子たちや先輩たちから何を言われてもうわの空で、ぼーっとしていたせいで全く場が盛り上がらなくて、女の子たちもシラケて帰ってしまったらしい。
先輩たちも、「お前を誘ったのは失敗だった」と吐き捨てるように言って俺を置いて帰ってしまった。
一人ぼっちになった俺は気が付けば自分の部屋に居て、そのままベッドに潜り込んで泣きじゃくることしかできなかった。
翌日は朝からバスケ部の練習があったけど、そんな状態で行けるはずもない。
俺は練習をサボった。何度か二奈や顧問の田沼からスマホに着信があったが、全部無視した。
多分、俺の醜態は先輩たちによってバスケ部の連中に伝えられているだろう。
どのくらいの部員が話を聞いたかはわからないが、今日で俺への評価がガタ落ちしたのは間違いない。
一目でわかるくらいに調子を落としていて、先輩や仲間たちからの信頼もなくて、練習もサボる……そんな男がレギュラーの座を掴めるわけがないことなんて、俺にだってわかっている。
次の練習試合に俺の出番はない。二奈やクラスの連中に大見得切ったっていうのに、試合に出るどころかベンチに座ることすらできないなんて、恥ずかし過ぎて顔から火が出そうだった。
「ひより、ひより、ひよりぃ……!!」
こんな時、いつもだったらひよりがいた。元気のない俺を励ましてくれる、あいつがいたんだ。
でも、あいつは尾上に寝取られた。あの卑怯者に、俺は彼女を奪われてしまった。
「くそぉ、ちくしょう……! ひよりは俺の彼女で、幼馴染で、俺のものだったのに……! 尾上の奴……!!」
どうしてかはわからない。でも、ほんの一か月足らずであのひよりが簡単に体を許すような関係になるはずがない。
きっと尾上は卑怯な手を使ったんだ。そうじゃなきゃ、ひよりがあんな奴に靡くはずがないじゃないか。
ひよりは俺にフラれて傷付いていたんだ。それで、傷心のあいつを尾上が上手いこと懐柔した。
そのまま流されて、洗脳されて、今のひよりは尾上のせいでおかしくなっているんだ。
助けなくちゃ、ひよりを。元のあいつに戻してやらなくちゃ。
俺の頭の中はそのことでいっぱいで、もう他のことはどうだって良かった。
だから月曜日の朝、俺はまたバスケ部の朝練をサボって、ひよりが出てくるのを待っていた。
尾上に邪魔されないであいつと話ができるタイミングは、ここしかない。
ここでひよりの目を覚まして、元のあいつに戻してやらなくちゃ。
俺は十八歳未満だけど、寝取られた女がどんな末路を迎えるのかは知ってる。
このままじゃひよりはヤリ捨てられて、最悪なことになるんだ。だから、そうなる前に俺が助けてやらないとダメなんだ。
幼馴染としての、彼氏としての使命感に燃える俺は、神経を集中させてひよりが家から出てくるのを待っていた。
朝練はどうしたとしつこく聞いてくるババアの声を無視して、ひたすらにひよりを待ち続けた俺の耳に、あいつが家の玄関を出る音が聞こえてくる。
その瞬間、俺は弾けるように走り出した。
自慢の身体能力をフルに使って、一秒でも早くひよりと話をするために家を飛び出した俺は、前を歩くあいつの小さな背中に声をかける。
「ひっ、ひよりっ!」
静かに歩いていたひよりが、俺の呼び掛けに足を止める。
この間と同じようにくるりと振り向いたあいつの姿を見た俺は、驚きに息を飲んだ。
「……何? っていうかあんた、バスケ部の朝練はどうしたの?」
そう冷ややかに言ってきたひよりは、普段と少し髪型が変わっていた。
普段はショートボブの短めの髪だったのに、今日はその髪を短めのツインテールみたいに黄色いヘアゴムで纏めている。
くらりと、めまいがした。頭の中に寝取られ本の王道的な展開が勝手に浮かび上がってくる。
チャラ男に寝取られた女は、今までの見た目から寝取った男の好みのド派手な格好になっていって……気が付けば、最初の清楚さが完全に消え去った、クソみたいな女に変えられてしまうんだ。
もう尾上は動いていた。あいつはひよりを自分好みの女に変えようとしているんだ。
ここからちょっとずつ髪を染めさせたり、日焼けさせたりして、ひよりを壊していくつもりなんだ。
「な、なんだよ、その髪型……?」
「はぁ……?」
戻さなくちゃ。止めなくちゃ。ひよりがこれ以上、おかしくなる前に。
俺のことが好きだった頃のひよりに戻さなきゃ、そうじゃなきゃダメなんだ!
「そんなツインテールの成り損ないみたいな髪型にしたら、ただでさえチビなのにガキっぽさが増すだけだろ? 止めろって、そんなの! 似合ってねえし、元の髪型が一番だって!!」
正直に言えば、今のひよりはとてもかわいい。子供っぽくもあるが、前の髪型にはない魅力があった。
でも、これじゃダメだ。このひよりは、尾上に汚されたひよりなんだ。
俺の彼女だった頃のひよりに戻さないと。俺だけのひよりに戻さないとダメだ。
(怒れよ。今までみたいにブチ切れろよ。それで喧嘩して、わいわいやって、いつも通りに仲直りしろよ。元のひよりに戻ってくれよ!)
ここでひよりが怒って、言い争って、適当に謝って、謝罪の印として何か奢って……それで終わりでいいんだ。
今は尾上の邪魔は入らない。二人だけで話せる。今まで通りの俺たちでいられる。
尾上のところになんか行かせないで、また俺の彼女に――って、そう思っていた俺に対して、ひよりは何の感情も込められてない眼差しを向けながら淡々と言った。
「……言いたいことはそれだけ? じゃあ、あたしも三つ言わせてもらうから」
「な、なんだよ……?」
いつもだったらギャーギャーと騒ぐひよりは、平坦で冷たい声で俺にそう言うだけだった。
言いたいことって何なのか? 息を飲んで待つ俺に対して、ひよりが言う。
「一つ目……この髪はあたしがしたいからやってること。それをなんであんたにぐちぐち言われた上に止めさせられなきゃなんないの? 簡単に胸を揉ませてくれる女に靡いてあたしを裏切った浮気男のくせに、どの立場からそんなこと言うわけ?」
「そ、それは……!!」
今までの喧嘩の時もひよりは似たようなことを言っていた。だけど、今回はそれよりもずっと冷たくて恐ろしい声と表情で俺にそう言っている。
そんなひよりの態度に、正論に、何も言い返せないでいる俺に対して、ひよりはこう続けた。
「二つ目ね。あんた、気付いてる? 今日まで自分が、あたしに言わなくちゃいけないことを言ってないってこと」
「え……?」
急にそんなことを言われた俺だが、完全にパニックになっているせいで全く頭が働かない。
ひよりが今、何をいったのかもいまいち理解できていない俺がただただ混乱を深める中、あいつは「だろうな」みたいな顔をしながらこう言った。
「あんたさ……浮気がバレてから今日までの間に、あたしに謝った? 一回でも本気でごめんなさいって言った?」
「えっ? あっ……!?」
頭の中で走馬灯が走るように、あの日から今日までの思い出がフラッシュバックする。
そうして改めて自分の行動を振り返った俺は、口頭でもラインでもまだひよりに謝っていないことに気付いたのだが、パニックになっている俺はそれでも素直に謝れず、つい思ったことを口走ってしまう。
「そっ、それは、お前がほとんど話を聞いてくれなかったから――」
「少なくともあたしは今日も含めて三回はあんたと話してるけど? でもその第一声は全部、ふざけた一言から始まってたよね?」
「で、でも、今までは謝らなくても許してくれてたじゃんか……!!」
「……そうだね。確かにそうだった。あんたの理解者面して、その辺のことをなぁなぁにして流してたこともいっぱいあった。そこはあたしも悪いと思う」
「だ、だろ? だったら――」
「でも、だからと言ってあんたのしたことが許されるわけじゃないから。っていうか、おかげではっきりしたよ。あんたにとって、浮気してあたしを裏切ったことはその程度のことなんだね? 謝らなくても許されると思うような、軽いことだったってことでしょ?」
「うっ……」
これは俺が悪いのか? ひよりだって謝る機会を与えてくれなかったし、今まではそれでも許してくれてたじゃないか。
本当はわかっている。俺が悪いってことに。頭ではそうわかってるけど、どうしても納得ができなくて、それで思わず口走ってしまった言葉がさらに俺とひよりとの間に溝を作っていく。
「……で、三つ目ね。これが一番大事だから、わざわざあんたと話をしてるの。だから、ちゃんと聞いて」
もう俺の心はぐちゃぐちゃだった。たった一か月足らずで幼馴染で恋人だったひよりとどうしてこうなってしまったのか、本気で意味がわからなかった。
そんな俺を真っすぐに見つめながら……ひよりは、はっきりとした声で最も重要なことを言う。
「あたし、もうあんたと話したくないからさ……二度と近付いてこないで」
「は、ぁ……!?」
「あたしとあんたはもう他人。恋人はもちろん、幼馴染でも友達ですらない。学校でも、この前みたいにどこかでばったり出くわしても、もう声をかけてこないで。わかった? じゃあ、あたしはもう行くから」
一方的な……あまりにも一方的な絶縁宣言に、俺は息をすることすらも忘れて固まっていた。
指先から全身が凍えていくような感覚に襲われながら、俺は背を向けて歩き去っていくひよりの背中を見つめる。
(嘘だ……! こんな、こんなに簡単に、俺との十数年が終わるだなんて、そんなの嘘だ!!)
たった一か月足らずで、こんなにもあっさりと、子供の頃からのひよりとの関係が終わりを迎えるだなんてあり得ない。
ちゃんと話をしなくちゃ。それでまた元通りの関係に戻らなくちゃと焦った俺は、去っていくひよりに声をかけるべく口を開いたのだが――。
「ひ、ひよ――」
「あのさ! ……どうしてあたしが小さな声で話してるか、わからない?」
俺が名前を呼び終わるよりも早く、脚を止めたひよりが少しだけ大きな声を出す。
その後、再び声を落としたひよりは、呆れた顔でこちらを見つめてから俺の家の方へと視線を向け、口を開いた。
「おばさん、まだ家にいるでしょ? 近所の人たちももう起きてる時間だよ? あたしがここで大声出したら、あんたのしたこと全部バレるけど……そうなりたいの?」
「っっ……!!」
そうだ。俺の家には母親がいる。近所にも、これまで俺たちを見守ってきた人たちがいる。
もしもここでひよりが大声で俺に絶縁宣言をしたら、その人たち全員にそれが聞こえて……絶対に、どうしてそんな流れになったのかを聞かれるだろう。
そうなったら俺の浮気がバレる。母親にも、この辺の住民全員にも。
そんなことになったら……俺はもう、外を出歩けなくなってしまうじゃないか。
「一応言っておくけど、あたしはあんたに情けをかけてるんじゃない。おばさんや自分の両親を悲しませたくないからこうしてるの。でももし、あんたがあたしの忠告を無視して、しつこく声をかけてくるんだったら……容赦しないから」
「ひ、ひより……」
「あと、名前で呼ぶのも止めて。ただの他人が名前で呼び合うなんて、不自然でしょ? あたしもそうするからさ、あんたもそうしてね」
「うっ、ううっ……!」
遠い。ひよりが遠くに感じられる。ほんの一か月前までは俺の隣にいて、今も手を伸ばせば届きそうにいるはずのひよりが、途方もなく遠い距離にいるように感じられてしまう。
なんでだ? どうしてだ? 何が悪かった? どこで失敗した?
今までだったら許されてたはずなのに、まだほんの少ししか時間が経っていないはずなのに、どうしてこんなことに……!?
「……じゃあ、これでサヨナラだね。バイバイ、江間くん」
「あ、ああ……!? うあぁぁぁ……!?」
そう言い残して、ひよりが去っていく。もう二度と振り返らず、俺を置いて、遠いところへ行ってしまう。
その背を追うこともできない俺は、ただ狼狽し、嘆き、呻きながら……あの日、ひよりに浮気がバレてジュースをかけられた時のように、茫然としながら項垂れることしかできなかった。
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