第1話 春の幽霊
うららかな朝。心地のいい日差しは入学式の今日を祝ってくれているようで、自然と足取りが弾む。ほとんど空のリュックサックに放り込まれた水筒が揺れて、余計な重さが肩にのしかかった。
周囲に目を配ればちらほらと同じ制服が見えた。入学先の朧谷高校は県内でもそこそこ上位にあるためか、少し遠くても通いたいという生徒は後を絶たず、年々生徒数は増加の一途をたどっていた。かくいう俺もその一人で、長く身を寄せていた叔父の家を飛び出して、何とか授業料免除を獲得し一人暮らしをスタートしたのだ。
これから始まる新生活。期待と不安の入り混じる未来に高揚は右肩上がり。踏みしめる一歩一歩がテーマパークを思わせる軽やかさで、ついには浮遊感が全身を包んだ。
そして感じる、吹き上げる強烈な大気!
気が付けば、落ちていた。自由落下していた。
見上げれば視界を縦に割くように、一本の光が露出した土と石を照らし出している。その奥には、ついさっきまで隣にあったはずの電柱が瞬く間に細く小さくなっていく。
「あ……死んだわ、コレ」
俺はそう確信した。
『この程度で死ぬやて。惰弱にもほどがあるわお前』
突如聞きなれない関西弁が耳元、というよりかなりの至近距離で聞こえた。中性的な声だ。
「惰弱とか、しょうがないだろ!こんな状態でどうやったら助かるって?!そんで誰だよ!」
完全な闇のなかでただ風を感じながら怒鳴る。半ばやけくそ気味なのは認める。とはいえ何も見えず、いつ終わるのかさえ分からない恐怖の最中に冷静を保つなどという離れ業を学んだ記憶は無いので、仕方がなかった。
『せや。お前、名は?』
「こんな時に自己紹介!?」
『ええからはよ言わんかい。もう三十秒もせんうちに、あほほど硬い地面に全身打ち付けて、体中骨折しながら内臓バラまき散らして死ぬで』
「やけに具体的な死にざまを耳元で通告するの止めない!?」
『文句は死んでからいくらでもいえばええわ。ほんで?どないすんの?』
意味はわからない。関西弁のことも、名前のことも、なんで今こんな状況になっているのかも、何一つ理解が及ばない。
ただ、たった一つ。このままでは耳元のこいつが言う通り、間違いなく死を迎える現実だけは感覚や本能みたいな部分が理解していた。
「しげゆきだよ!髙原重之!」
『よし。ちゃんと覚えとけよ』
「さっきから意味の分からんことばっか言ってるのなんなんだよ!早くこっからどうすれば助かるのか教えてくれ!」
やたら満足そうに納得している見えない誰かに、湧き上がる怒りは頂点を迎えていた。
『あぁ、すまんの。そしたらまず、お前の感覚を全部渡せ』
「だから!難しいことばっか言うなよ!そもそもどうすればいいのか聞いてんのに……」
『ええから。だまぁって、感じるもん全部受け入れといたらええねん。ほれ、後十秒しかないで?』
なんだよそれ!と、なおも困惑は深まるばかりだった。しかしここで指示を無視しようが、待ち望む結果は得られない現実だけが、俺の脳みそから電気信号を発信し、体を動かした。
その瞬間、血液のような、けれど血液よりももっと柔らかい何かが全身を駆け巡る。すると、先ほどから感じる大気の急流の中に違和感が生まれた。手のひらから肩にかけての流れが弱まるような感覚。それは次第に全身へと伝播していき、徐々に落下の速度を緩やかなものに変えていく。
ストン、と見えない地面に両足から着地していた。踏みしめる足元は確かに土の感触があり、助かった実感に冷や汗が噴き出した。
『どや?いう通りにしてよかったやろ?』
先ほどと変わらない緊張感で話しかけてくる声。不思議な安心感を覚えるその声は、相変わらず至近距離で話しているような響き方をしていた。
「あ、あぁ。なにがなにやら全くわからないけど、とにかく助かった。それは感謝する」
『そやろ?もっと敬ってくれてもええねんで?なんならずっとさっきみたいに体貸してくれてもええねんで?」
発言から察するに、こいつは幽霊なのかもしれない。
「今のうっとうしい発言は聞かなかったことにするから、もっと有益なことも話してくれると助かるよ、幽霊さん」
『なんや、そんなまともな発言しおって。さっきの惰弱ぶりはどこいってん?』
この暗闇の中で不安と恐怖に呑まれずに済んでいるのは、そんな不遜な態度も救いになっているからかもしれない。鼻につくのは否めないけれど。
もはや地上の光の届かない真の暗闇の中、幽霊さんの『惰弱惰弱ぅー』という日頃耳にしない言葉だけが嫌というほど響いていた。
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