第8話

 一例だが、野球の女子日本代表チームは国内で練習試合の相手としてシニア、つまり男子中学生のクラブチームをよく選ぶ。

 安全を確保しながら男女で勝負を成立させるにはそこが限界点というひとつの事例だ。生物学的事実として男は女に身体能力でまさる。いわば上限値が違うのだ。本来、同じ土俵で比べようとすること自体に不公平が生まれるほどの差が横たわっている。

 わざわざするまでもない常識の話。高校生にもなればその程度は大なり小なり誰でもわきまえており──だからこその驚きが今、この場に渦巻いている。


「……ボール! フォアボール!」


 フルカウントからの十二球目。ここまでで初めて投げた、インローの足元に落ちるカーブに夏目がしっかりバットを止めた。


「……ぷはあっ! あっぶない、振るとこだった~!」

「いや振れよ! 今のはさすがに!」


 安堵からか脱力して笑う夏目。対照的に、マウンド上の伊藤先輩は「クソ!」と土を蹴って本気で悔しがる。

 無理もない。見逃しと空振りで早々にツーストライクに追い込んだにもかかわらず、粘って粘って最終的にフォアボールをもぎとられた。投手が試合でやられたら一番腹立たしい展開だ。


「いつのまにかギャラリーもめちゃくちゃ増えてんな……」


 夏目が粘っているあいだに集まってきたのだろう。バックネット裏からはとうにあふれて、今やベンチ周辺やグラウンドの外周部にまで観衆がうじゃうじゃいる。生徒にまざって教師まで「ほう……」と後方腕組顔で勝負を見守っているありさまだ。自由だなこの学校。

 で、それだけ集まれば当然野球のやの字も知らない野次馬もいたりするので、耳を澄ませばこんな会話も聞こえてくる。

 

「ねえ、フォアボールってなに? 珍味?」

「フォアグラじゃねえよ。四球。バッターは一塁に行ける……んだけど、今回はカウントリセットしてやり直しになるらしい」

「なんで? 知らないけど、進んじゃった方がいいんじゃないの?」

「さあ……ん? え、三人で三打席以内に点取る勝負? ……あーだからか」

「? どゆこと?」

「このルールなら、守る方は全部四球でも勝ちになるからな。それを防ぐためなんじゃないか?」


 そういうことだ。野球部としてのメンツがそれを許すかどうかはさておき、予防として夏目は織り込んでいたわけである。

 

「ししし、カウントリセットですね伊藤先輩。勝負続行です。次こそ打ってやりますから、覚悟してください」

「くっ……いいだろう。もちろん望むところだが、その前にひとつ言わせてくれ」


 伊藤先輩は戦意を燃やして夏目をにらみつける。

 しかし同時に、


「すごいな夏目さん! 最初は『俺をナメやがったなこの女』と思わずにいられなかったが……正直、惚れ直したぞ! 女性と対戦したのは初めてだが、ここまでやれるものか!」


 その目はキラキラ輝いていた。

 すっかり野球少年のまなざしだ。

 伊藤先輩にかぎらった話ではない。夏目のファウルの内容がよくなるたび、振らせにきたボール球にバットを止めるたびにナインの空気ははた目にも明らかに変わっていった。なんかこいつ普通じゃねえぞ、と。

 実際、夏目のバッティングはたいしたものだった。反応よしスイングスピードよし、よしよしと基本ができている。経験の浅さゆえかコースの見極めはやや怪しいが、そこも自覚はあるのかクサイところは反応の速さを生かしてしっかりカットしにいっていた。問題は俺が鏡を見ているようでひどく癇にさわるということくらいだ。またパクリやがってあんにゃろう。

 当然、技術ができたところで女子の身体能力で伊藤先輩の球威についていくのは困難だ。やつは当然、魔力による身体強化を行っている。

 の生物学的には、全身にめぐる魔力経路は雌性の方が発達傾向にあったことで身体能力は男女で均衡が取れていた。男は土台に優れ、女は内からの強化により優れる。そういうバランスだ。今この世界で俺に魔力経路がなく、夏目にはあらわれているのはそうした傾向を継承しているがゆえかもしれない。


「マネージャーで入部という条件だったが……惜しいな。どうだ夏目さん。そこまで振れるならいっそ選手として来ないか?」

「恋人にそう望まれるならやぶさかじゃありませんが、私たちはまだ投手と打者の関係でしょう? まず考えるべきは、次の一球。ちがいますか?」

「ははっ、ちがわないな! まったくもってその通り!」


 とはいえ、勝負している本人達にとってそんな細かい理屈はどうでもいいのだろう。

 ボルテージを高める二人。それぞれへの声援を強める野次馬。さなか、ぼやくような声が風にまぎれる。


「野球よくわかんないけど……なんかあの子、すごく楽しそうにやるね。おもろ」


 自他を楽しませる才能。見るものすら巻き込んで空気を形成する力。

 スターの資質と呼べるものの片鱗を、夏目は今存分に見せつけていた。さすが前世で百万単位を巻き込んで壮絶なぶっ殺し合いに持ち込んだ女だ。ものがちがう。


「…………」


 ふとネクストバッターズサークルを見ると、真昼はそんな騒がしい状況のなかでもじっと投手と打者の方を観察している。


 さておき、勝負再開だ。カウントリセットした夏目の打席。

 一球目ストライク。低めのストレート。二球目もストライク。やや甘いチェンジアップ。しかし夏目はいずれも手を出さない。不気味な見送り方だった。狙いを定めて舌なめずりしながら待ち構えているような。

 そしてその予感は正しかった。

 続く三球目、ボールゾーンから外角に入れてくるバックドアのスライダー。一打席目で何度かバッテリーが決め球にしようとしていたそれを、夏目は待ち構えていたようなフルスイングでとらえた。

 響く快音に観衆がどよめく。ライト方向に白球が高く上がっていく。


「よっしゃあいっけえええ! ────…………って、あれ?」


 が、高く上がり過ぎたのかボールは失速。ライトが定位置から十メートルほど後ろに下がって落下点に入る。ライトフライ。


「……ふむ」


 まあ、余裕でいけそうだ。

 俺はライトの捕球と同時にベースを蹴って三塁に向かう。ライトもすかさず返球するがさすがに捕球位置が深い。中継したショートはサードまで送球できず、スライディングも不要で進塁打という形におさまった。


「……え、今の何? あのひとなんで走ったの?」

「犠牲フライってやつだよ。アウト一つと引き換えに塁を進めた」

「えーなんかせこーい」

「バッカおまえ、ああいう小さな積み重ねで一点を目指すのが野球の醍醐味ってやつだろうが!」


 わかってるじゃないか。見知らぬ観衆の声に俺は勝手にひとりうなずく。


「……くっそー負けたー! 超くやしいーーーー!!」


 凡退した夏目はといえば、器用なことに地団太踏みながらこちらに歩いてきて三塁側コーチャーズボックスにおさまると、三塁ランナーの俺に向かって興奮気味にまくしたててくる。


「ていうか伊藤先輩のボールクソ速い! 変化球バカ曲がる! なにあれ見てからバット出してたら全然間に合わないじゃん! あれを外野まで運んだのあたしすごくない!?」

「引っ張りにいく球じゃなかったな。体から遠い外角低めだ。おまえのリーチじゃ力も乗せづらい。欲張ってホームランでも狙ったか? 逆方向に流してた方がまだしもヒットの可能性はあったろうよ」

「え、やだこのひと全然褒めてくれない……うう、ひどい! あたし打つの初めてなのに! この冷血マジレスおばけ!」


 おーいおいおいおい、と夏目はあからさまな泣きまねをする。やかましいぞ経験値泥棒。

 とはいえまあ、ホームランを狙いにいったのは正解だ。夏目が自分の手で勝ちをもぎとるにはそれしかなかった。

 なぜなら仮にヒットを打ったところで、俺は三塁より先に進むつもりはなかったからだ。


『ねえ春日井くん。秋本真昼さんとの関係を修復したくはない?』


 あの言葉の意味を、結局夏目はまだ示していない。

 まさか俺が野球でいいところを見せれば仲直りできる、なんて単純な話ではないだろうが……なんにせよ、ともにプレーすることに意味があるとするなら打席を真昼まで回さなければ話にならない。

 だからこそ俺は出塁し、この勝負のを決められるランナーという立場をもぎとったのだ。夏目がただ俺をノせるためだけの虚言を吐いたのだとしたら、遠慮なく負けを選んでやる。


「まさか外野まで運ばれるとはな……俺もまだまだだ。いい勝負だったぞ夏目さん!」


 さわやかに言いながら、伊藤先輩はいよいよ勝利を手にするべく右のバッターボックスに入った三人目の打者と向き合う。

 夏目という怪物を経て今さら女子相手だからとあなどる空気はない。内野も外野もきっちり前進守備を敷いて本塁で俺を刺す態勢。仮に勝ちに行くなら今度こそスライディングが必要になりそうだ。くそ、俺も制服じゃなくてジャージに着替えておけばよか

 

 ──カァ───ン


「えっ」


 果たしてそれは誰の声だったろうか。

 打たれた伊藤先輩か。もっとも間近で見た伏見先輩か。あるいは野球部の誰か、野次馬の誰かか。

 どうあれ、なんにせよ、誰にとってもそれは特大の不意打ちだった。


 きれいな音だった。

 きれいな打球だった。

 跳ね返されたのは初球のストレート。白球はセンター方向に青空を切り裂き、目を奪われるほど美しい軌道を描いた。

 見上げる誰もを代弁して、どこかの誰かがつぶやいた。


「…………いった……」

 

 アーチスト、と呼ばれる種類の打者がいる。

 強打者のなかでも一握りしかいない、それは弾道に天性を有する者。球場の空に橋を架け、ただの打球を芸術に昇華せしめるスイングの持ち主──

 すなわち、生まれついてのホームランバッターだ。


「ナイスピッチでした、先輩」


 外野のはるか向こうにボールは消えた。

 静まり返った、否、黙らせたグラウンドでただひとり時を刻んでいるように、秋本真昼はバットを置いて訥々と言う。


「ただ、ここまでの二プラス一打席、初球は全部ストレートだったので。あと、アオ……春日井くんに内角厳しく攻めてたのに夏目さんにはそうでもなかったので、同じ女のわたしには外に来るかなと思って。左が続いて神経使っただろうし、右のわたしには甘めに入ることも期待して狙いました。すいません」


 エースが試合を作るものなら、強打者スラッガーとは試合を決めるもの。

 決着のツーランホームラン。

 ゆっくりとダイヤモンドを回り始めたバッターの姿で思い出したように歓声が爆発してもなお、俺はまだ呆然としていた。


「…………いやいや待て待て待て」


 打てた理由はわかった。真昼に長打の技術があるのも知っていた。錆び付いていないのは喜ばしい。

 だがあのスイングスピードと飛距離パワーはいったいなんだ!

 球場ならバックスクリーン直撃弾だぞ!? 木製よりも飛ばない低反発の金属バットで!


「ははあ……まいった、さすがにすっごい。あれはちょっとマネできそうにないや」

「──……夏目」


 隣のコーチャーズボックスで打球の行先を見つめてぼやく女に、俺は問わずにいられなかった。それが自分の間抜けを最大限さらすと承知のうえで。


「おまえ、どうやって気付いた」

「昨日、動画見せたでしょ? そのときの反応のタイミングとかで『あれ? この子見えてね?』ってね。……んふふ、でもそっか。本当に知らなかったんだ。一度でも視ていればわかったでしょうに。秋本さんのことよほど大切にしてたんだねえ」

 

 愉快そうに肩をゆすって、このうえないドヤ顔で夏目は俺に指摘する。


「まさかその眼の持ち主にこれを言える日が来るとは。──だったね、魔王サマ?」


 魔力強化によるパワーバッティング。

 もはや疑う余地はない。秋本真昼は転生者だ。


「おしゃべりしてないで進んでくれない? アオちゃん」


 三塁ベース付近まで到達した真昼が不満そうにいってくる。

 俺は見慣れたおさななじみに、いかにも間抜けな質問を投げかける。


「……おまえは何者だ?」


 ランナーはランナーを追い越せない。質問に答えないかぎり自分はホームインできない。それを理解してか、わずかな沈黙を経て真昼は細長いため息をついた。どこか観念したような。

 そしてふわりと笑う。

 久しぶりに見る明るいそれを占める感情は──おそらく、開き直り。

 真昼はすこし背伸びして、俺の耳元でこうささやいたのだ。


「お久しぶりです。

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