第5話

 スポーツ、とりわけ球技で男女が同じフィールドに立てる時間はとても短い。

 女の方が成長の早い時期もあるものの、10代に突入して以降はフィジカルの成長曲線は明確に男優位に傾く。

 体の強さで敵わないなら技術や思考で勝負、という話にもけっしてならない。強い方が勝つか、上手い方が勝つかという比較に意味はないからだ。スポーツにおいては技術も思考も身につけられるもの。ならばに決まっている。


 性別を問わず一緒に戦える──その条件が成立するのは、野球では小学生までがおよその限界点だ。


「アオちゃんはさ、これからどうするの?」


 その限界点がまもなく……いや、もう過ぎつつあったころに真昼からそう聞かれた。

 たしか近所の公園でキャッチボール中だった。少年団はすでに最後の大会を終えて余暇のある中、真昼の「キャッチボールしようぜ!」に誘われてふらふらとついていったのだ。


「これから?」

「ん、これから。小学校卒業したあと。中学で部活野球? それとも硬式シニア? シニアでもアオちゃんなら全然やれると思うよ。むしろ引く手あまたでしょ」

「少年団の一マネージャーに声をかけるチームなんてないだろ」

「軟式日本一になったチームで一番バッティングがうまくて、一番守備がうまくて、一番いい球が投げられて、なのになぜか試合には出ずマネージャーづらでチームを指揮してる選手、のまちがいでしょ。しかも最近は身長までわたしを追い抜いたし。……くそ、言ってて腹立ってきた。小さくて生意気かわいかったアオちゃんを返せ!」


 めちゃくちゃ言いながら投げ込まれるボールを軽くキャッチし、なんだそりゃと呆れながら俺はふわりと投げ返したりして。


「自分でやれた方が伝えられるし、やれた方が言うこともちゃんと聞いてもらえるから身に着けただけだよ。ヘタクソの指導なんて誰も聞かないからな」

「かーっ! 天才型はこれだから!」


 人生二周目による思考力や因果の魔眼の補助もあるが、たしかに春日井藍は身体的に恵まれている。まだまだ成長の途上で伸びしろも見込める。しかしいかんせん、自分の実力で成し遂げようという気概が致命的に欠けている。

 これは春日井藍という個が根源的に抱える問題だ。かつて魔王として我欲を極めようとした反動もあるだろう。

 とはいえ、野球は好きだ。もともと真昼に誘われて始めたものだが、なるほど奥が深くておもしろい。刹那の斬り合いにも似た投打の勝負のわかりやすさ。一球ごとに思考を凝らすことで生まれる攻防の奥行き。個人戦と団体戦の性質を同時に内包する競技的多面性。やる者も見るものもボールの行方に一喜一憂してこそ場に生まれるドラマと一体感。人気になるのもうなずける。


「真昼は女子野球のクラブチームだろ? さすがにそこに男のマネージャーはお呼びじゃないわけで」

「……だから?」

「今度は自分でやるのもわるくないと思ってるってこと。シニアはリトルからのスライドがほとんどだろ? 中途は波風が立ってめんどそうだ。やるなら中学校の部活になるんじゃないか」

「なんかめっちゃ他人事じゃん」

「そういうわけじゃないけど……まあ、野球は続けるってこと。適と……それなりに?」

「いま適当って言おうとしたー!」


 あのねえ! と真昼は腰に手をあてていったのだ。小学生ながらもいつのまにかかなり目立つようになった胸をそらしつつ。


「適当じゃ困るのよこっちは! いい? わたしには夢があるの! それは女子野球の全日本女子代表遊撃手ショートに選ばれること!」

「? 知ってるけど」


 何度も聞かされたし。


「真昼なら可能性あると思ってるよ。現時点で男子顔負けの長打力で、遊撃手ショートにふさわしい守備力フィールディングと肩もある。故障に気を付けて能力を伸ばして、経験と実績を積んでいけばきっと──」

「わたしの話はいいの! でも褒めてくれてうれしい! ありがとよ!」

「……真昼の夢の話だよな?」

「そうだけど! 最後まで聞く! わたしの夢はね──」


 ……………………それは。


「……ものすごく難しいことを言いだしたな。プロになるよりもハードル高いだろ、それ」

「ふっふっふ、アオちゃんならできるってわたし信じてます」

「何を根拠に……」

「だってアオちゃん、できないことは『できない』って言うし。第一声が『難しい』なら道筋は見えてるっぽいじゃん? 見えてるなら辿れるのがアオちゃんがアオちゃんたるゆえんなわけで」


 また芯を食ったことを言いおるよこのおさななじみは。

 にしたって、真昼の夢とやらは無茶ぶりにもほどがあった。──が、


「全日本女子代表のになって一緒に世界を獲れ、ときたか……まあ、とりあえず必要なのは実績だな。真昼の現役中に達成となると、今から段階を踏んでおく必要がある」


 枯れた我からはけして生まれない険しい目標を提示されて、しかし俺は内心ワクワクしながら道筋を組み立て始めていた。その組み立ての勘定には当然、因果の魔眼もちものすべてが含まれた。

 まず必要なのは選手と指導者、両方の実績だ。中学校の部活をわざわざ支配下に置いて頂点まで連れて行ったのはいわば予行演習。本命のワンステップは高校野球だ。実績に乏しい学校に入学して、正真正銘、野球に命を賭けている怪物ばかりが集まる全国の戦場でチームを頂点に立たせたなら、目標に大きく近づくだろう。そのための下準備、さらにその先も見据えた下準備も中学校の部活と並行して進めていた。

 しかし、中学二年生のときに真昼は突然クラブを辞めてしまい、俺も合わせるように中学の部活で競技としての野球は終わりにした。

 ……責めるつもりもとがめたい気持ちもない。みずから望みを定めず、ひとさまの夢にあさましく乗っかろうとした者に、余人の選択にとやかく抜かす権利などあるわけもない。

 なんにせよ。それ以来野球という接点を失った春日井藍と秋本真昼は、家が隣同士にもかかわらずろくに話をしておらず──真昼が野球を辞めた理由すら俺はいまだにわからないままだ。



「春日井くううん! 野球しようっぜ!!」


 っぜ! っぜ っぜ……昼休みの教室に腹立たしいスタッカートがこだまする。

 一瞬静まり返った教室は、しかしすぐ何事もなかったかのように喧騒を取り戻す。

 ついでに一緒に昼食後の談笑に興じていたクラスメイト達が手慣れた感じで速やかに机を動かして俺から距離を取っていく。内男女一名ずつからぽんと両肩に手を置かれ、離れ際になんともいえないほほえみまで向けられた。本当にやめて。


「ほら見て左利き用のグローブ! ついでに新品ボール! 早速ネットでポチっちゃった。というかグローブっていいお値段するねけっこう。……あれ、もしかして左利き用だけ高めだったりする? またぞろ左利き差別か? おん?」

「俺につっかかるな机に尻を乗せるな右も左も値段は変わらねえ」


 ちぇー、と唇をとがらせながら前の席へぴょんと飛び移る夏目に俺はため息を隠せない。

 あの勝負から二日が経っていたが、ごらんのとおり夏目はすっかり野球に傾倒している。


「おまえとちがってこっちは道具の持ち合わせがない。他当たれ。野球部ならそのへんにたくさんいるぞ」

「まったまたあ。こっちは春日井くんとやりたくて声かけてるんすよ?」


 言いながらボールを軽くグローブにたたきつける夏目。屋内でのアンチマナーど真ん中なその行為よりも、グローブの固い音に俺は眉をひそめた。


「……夏目、そのグローブ手入れは?」

「えっわかんない。買ってそのまま」

「オイルくらい塗れやアホが! つーかこれ、折り目もろくにつけてねえじゃんか! ……あ、まさかコレ鞄にそのまま突っ込んで持ってきてないだろうな!? 教科書で潰れたみたいな型になってんぞ!」

「お、おう。そのまさかっすけど」

「無理。論外。死ね」

「ひどっ! 死ねまで言う!?」

「テメエの道具の世話もできねえやつに生きて野球やる資格はねえ。死にたくなきゃ勉強しろ。文字が追えないなら動画で学べ。グローブの手入れならホラこの動画だ。これ以外にもこの投稿者は野球道具全般の取り扱いを教えてくれてるから──」


 言いかけてはたと我に返る。俺は何を親切に教えようとしているのか。


「ふうん。そこまで言うなら見てみよっかな」


 教えてくれてあんがとねー、と言って夏目はグローブを抱えたまま自分のスマホで動画を見始める。居座るつもりか。

 自分の教室でやれや、と言いたいところだったが夏目の横顔が思いのほか真剣で文句が喉の奥に引っ込んでしまった。

 とはいえ、ぼんやり付き合ってやる義理もないので俺はおもむろにトイレに行く。小用を済ませて戻ってくると夏目はまだ同じ場所でスマホとにらめっこしていた。こいつ他クラスによく堂々と居座れんな。

 もはや空気として扱うと決めて俺は俺で自分の席で読書を始めたところ、最初のページをめくる前に夏目が言った。


「ねえ春日井くん。やっぱりあたしのチームに入って一緒に野球やろうよ」

「いやだね」


 やっぱりその話か。俺はページに目を落としたまま脊髄反射で言葉を返す。


「むー、なんでえ? いいじゃんやろうよやきゅうー。勝った方が言うことをなんでも聞くって約束だったじゃんかー」

「それを言うなら俺も勝った。一勝一敗でその約束は相殺だ。……大体、チームを作るってことは草野球ってことだろ。わざわざそんなことしなくても、野球がしたいなら野球部に入ればいい。どうして遠回りしようとする」

「いじわる言うなあ。春日井くん、うちの野球部が女子はマネージャーしか募集してないの知ってて言ってるでしょ」

「高校野球で女子がグラウンドに立てない規定は撤廃された。今なお男子しかいないのは……まあ慣習も多少はあるがろうけど結局は実力の問題だ。その気になればねじ込むことは不可能じゃない。……まあ、もっとも」


 夏目の方を見て俺は言う。


「おまえの場合、まずは体力をどうにかしないと使ってもらえなさそうだな。どんなに球がよかろうと、走れない球児に居場所なんてないからな」

「んぐっ……や、やっぱりバレてた……」 


 きまりわるそうに顔をしかめる夏目。

 先日の対戦。人を殺しかけた点に目をつむれば大した投球をしてみせたこいつが抱える致命的な弱点について、因果の魔眼を酷使したことで俺はおよそ把握していた。

 どうやらこいつ、ろくにスタミナがない。

 魔力による身体強化という推測は正しかった。この世界の人間にはないはずの魔力経路をわずかながら継承し、そこに自身の魔力を通して強化することであれだけの球威を実現していた。しかしべつに普段から走りこんだりしているわけではないからガス欠も早かった。

 体を操るセンスは抜群だが、操られる体はたいへんお粗末という状態なのである。もったいない話だ。


「野球ってのは一見した印象よりもずっと長い走行距離を要求される競技だ。外野の守備が顕著だけど、瞬発的な消耗でいえば内野も相当だ。投げた直後から野手のひとりになる投手も言わずもがな。バント処理にベースカバー、バックホームをはじめとするカバーリング……とかく守備で『走る』タイミングはそれこそ数えきれない。たしかにおまえの投球はたいしたものだったけど、それだけじゃままならないのが野球の難しさであり醍醐味でもあり──」

 

 ぶふっ、と夏目がいきなり吹き出して、気分よくしゃべっていたのを中断させられる。


「頼んでもないのに超語るし。本当に野球が好きじゃん魔王サマ。……うーん、でもますますわかんない。そんなに好きならやればよくない? それこそそっちが野球部に入ってさ」

「ッ……、やかましい。とにかく、俺はやらないったらやらない」

「むう。なんか意地になってるふんいき。まあすぐ落とせるとは思ってなかったし、気長に誘わせてもらうけど。あと野球部に入るのはあたしちょっとパスかな。なんかエースのひとに告られちゃって気まずいし」

「しつこくしても無駄だ。何度言われても俺は──…………なんて?」


 さすがに聞き直した。誰が誰に何?


「昨日の放課後野球部に見学行ったの。そのときにどうも一目惚れされちゃったらしくて。で、ついさっき告白を受けてきた……みたいな?」

「…………」

「断ったけどね。よく知らない先輩だったし。ただちょっと押しの強めなひとだったから、あきらめてくれたかあやしそうだったけど……ん? え、ちょっとちょっと。春日井くん、どうして無言で距離を取るの? ひとつ後ろの席に移動しちゃうの?」

「いやだ近寄るなどっか行け! これ以上妙な誤解を受けたらどうしてくれる!」


 忘れてた。この女、学年でもトップクラスの人気者なのだった。というか男を振ったその足でなぜまっすぐこちらにやってくるんだこいつは! バカなのか!?

 

「こいつ、こいつマジで信じらんねえ……! 伊藤先輩も伊藤先輩だ。こんな女の見た目にだまされて……!」 

「──待った。春日井くん、なんで相手の名前知ってるの? あたし野球部のエースとしか言ってないよね」

「? そりゃおまえ、野球部の現エースって言ったら伊藤海斗しかいないからだろ」


 身長180センチオーバーの二年生、シニア上がりの本格派右腕だ。知らない方がどうかしている。


「もしかして、けっこうすごいひと?」

「ん……まあ、野球で無名なこの学校には見合わない程度のスペックはあるプレイヤーだな。去年の地区予選もシードの強豪相手にいいところまで──」


 言いさして夏目を見ると、妙に真剣な表情になっていた。

 腕を組んでなにやら考え込む格好のまま十秒ほど静止したあと、夏目はこう発した。

 

「…………ふうん?」


 ……なにか余計なことを言ってしまったかもしれない。うちなる第六感の警告に重なるように、昼休み終了を告げるチャイムが教室に鳴り響いていた。



「調子がくるう……」


 ぼやきがもれる。

 放課後、所用を済ませた帰り道だ。

 夏目のやつは、先日の勝負以来なにかと野球を携えて突撃してくる。俺は俺で、野球の話ならばとつい条件反射的に対応してしまう。というかそこを付け込まれているような気さえする。

 おかげでクラスメイト達も「ああ、また野球の話をしにきたんだな」となまぬるーい空気で俺たちを包み込むようになってしまった。どっちも帰宅部なのに。夏目勇那という目覚めし野球モンスターの退治に失敗した代償は、どうやら想定以上に大きい。


「ただいま」


 十八時前に家について、上がりながら声をかける。春日井家の夕飯は大体いつも十八時半で、いまごろは母が支度をしている時間帯だ。

 さっさと着替えてわずかでも母を手伝おう。そう思いながら靴を脱ごうとして、なんだか玄関に靴が多いことにはたと気づく。


「おかえりなさい藍。お友達がたずねて来てるわよ。リビングに上がってもらってるから先に挨拶なさい」


 エプロン姿の母が顔を出して言う。母はなにやらにやついていた。

 ……おかしいな。未来視なんて使ってないのに、誰がいるか不思議とわかった。表情に出ないように気を付けながらリビングへ。


「やあやあ春日井くん! おじゃましてまーす!」

「………………ああ。うん」


『無』を顔面に張り付けて俺は言った。

 予想通り、夏目だった。ロングソファにゆったり腰掛けて麦茶とか飲んでやがる。当てたくなかったなあこの予想。


「いきなりごめんねー。いやさ、学校でちょーっと話し忘れたことあったんだけど、よく考えたら春日井くんの連絡先わかんなかったからこうしてたずねて──」

「わかった。わかってないけど、ひとまずいいぞ夏目」


 家族の手前『すこし黙れ』を可能な限りオブラートに包んで伝える。そもそもどうやって住所を知りやがった、という小さくない疑問もいったん捨て置きつつ、俺は夏目の隣に目を向ける。

 ……玄関には知らない靴が二足あった。知らない靴になったのだなと、俺はなんともいえない気持ちになりながら言った。


「よ。ひさしぶり真昼」

「ん。ひさしぶりアオちゃん」

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