第4話

 前世の話だ。

 春日井藍の魂は以前、魔王アスールという名で世界を支配していた。

 生まれて百年で種族の中で頂点に立ち、もう百年かけて大陸の頂点に立ち、以後三百年ほどかけて支配を盤石なものとしていった。

 配下の育成に抜かりはなかった。自己の研鑽に怠りはなかった。いずれ永遠の命にすら手が届くと信じて疑いもしなかった。

 しかし体制は崩壊した。魔王アスールの五百年は敗北と死で無に帰した。

 腐敗によってではない。怠惰によってではない。純粋に、力によって打ち砕かれたのだ。

 打ち砕いたのは短命種に生まれ落ちた突然変異。

 極東の島国から海を渡って聖剣『一握の火フェアブレイズ』に選ばれ手にし、抑圧されたささやかな者たちを希望でたきつけ、ついには魔王を滅ぼすに至った勇者イサナとかいうそいつの命はふざけたことに二十年にも満たなかったという。


 ──そして今、別の世界で歴史は繰り返そうとしている。


 バットが空を切る音に遅れて、ズバアン!!とミットが鳴らされる。背後で空を泳いだバットを両手で保持しながら不快なそれを聞く。


「……す、ストライク!」


 中嶋の後ろ、球審のポジションに立つ松野がつっかえながらコールする。「そういうのなかったっけ? あたしもあれ聞きたいな!」と一球目の直後に言った夏目にこたえる形で松野は買って出た。

 キャッチングの痛みに顔をしかめながらも、中嶋は立ち上がってボールを返球する。返球先は投手ではなく、自分も何かを、と慌てて内野の守備についた田中だ。田中は捕球したボールを夏目に手渡ししたあと、駆け足で二塁手セカンドの位置に戻って腰を落とし、遊撃手ショートについた遠藤と二人してマウンドに熱を帯びた視線を送っている。驚愕、困惑、期待、羨望。視線を占める感情はそんなところ。

 たった一球のストレートで、夏目勇那はこの小さなグラウンドの支配者となった。俺のかわいい後輩たちをみずからの奉仕者に変え、味方に取り込んでしまった。

 

「…………ふうぅぅ……」


 細長く息を吐きだしながらも、俺は目に焼き付けた球筋を閉じた瞼のなかで再現することに必死だった。増えた敵のことなどどうでもいい。

 目を開く。マウンドを見る。夏目がモーションに入る。呼吸を合わせることに集中しながらも、俺はそのあまりのインチキに憤りを覚える。

 ──理想的だ。軸足の安定、ステップの方向とスムーズな体重移動。股関節の回転と胸の開き、リリースのポイント、回転スピンをかける指の切り方……つま先から両手の指先まで、俺が目指してきたオーバースローそのものだ。

 たった三球の手本でこいつはそれを奪いとった。それも自分の体格に最適化した形でだ。

 勘の良さと呑み込みの早さ。返す返すも腹立たしい、これが勇者イサナ最大の特性『成長力』だ。積み上げた年月など素知らぬ顔で飛び越え、よいと思ったものはそのへんの果物でも摘み取るように我が物とする。ふざけやがって。許せねえ。


 チッ、とかすかな擦過音。背後のフェンスが音を鳴らす。

 球審の松野は反射的に身をかがめながらも「ふぁ、ファウル!」とコールする。


「あれ、ファウルってなんだっけ?」

「基本ストライクだけど、アウトにはならない。もうツーストライクだから、今のはノーカウントだな」


 平静を装って答えながら、俺はひっそり手のしびれに歯噛みする。ギリギリついていくのがやっとだ。

 ……悔しいことに、さっきの俺より遥かに球速が出ている。目測で145キロ以上。回転によるノビで体感はさらに球威がある。

 女性の野球選手では130キロ台後半くらいだったか。ここにスピードガンがなくて幸いだ。あったらシンプルに大事件になる。

 

「あ、わかった。これが『粘る』ってやつだ。んひひ、いいじゃんいいじゃん。勝負らしくて!」


 カウントはノーボールツーストライク。自分が優勢なことを理解してか、夏目は楽しげに口元をゆがめる。

 ……あたりまえの話だが、フォームだけで速い球が投げられるわけではない。球速を生むのは結局フィジカルだ。要素はいろいろあるものの、主に肩の強さと足腰の強さが『速さ』の土台となる。

 その点でいえば、夏目の球は明らかに異常だ。身長だけ見ても176センチの俺より夏目は10センチ近くも背が低い。

 身長の高さはそのまま積載可能な筋肉の多さと正比例するし、そもそも夏目の体は引き締まってこそいるがスポーツマンの筋肉をしていない。到底見合った球速ではない。明確になんらかのインチキをしている。

 魔力による身体強化? ──本来、不可能だ。種族個体で程度の差はあれど、前の世界では体の末端まで神経や血管のように通った魔力経路が標準装備で、そこに魔力を通すことで強化が可能になるという理屈だった。俺も含めてこの世界の人間にはそれがない。夏目も同様のはずだが、この前提が異なっていたらどうか。俺の空間魔法や因果視といった固有能力のように、前世ほどではないにしろ魔力経路を継承しているとしたら──

 ……いや、いい。

 この場で因果視を使えばたしかめられるが、今は捨て置く。事実としてヤツは。重要なのはそれだけだ。


「ぐっ……!」


 四球目。再びカット。前には飛ばず三塁線側後方のフェンスにぶつかる。まだボールの下を打っている。球威に負けている証拠だ。


「春日井くんさ、なんでやめちゃったの?」


 マウンドからなにやら雑音が飛んでくる。


「やらないとわかんないもんだね。おもしろいじゃん野球。もったいなくない? 高校でもやればよかったのに。なんで?」

「教えてやる義理はないな」

「当てようか。うしろめたくなったんじゃない?」


 五球目。ファウル。

 自分の目を指した夏目が得意げに雑音を垂れ流す。


「まねてわかったよ。相当使でしょ。あるもの利用して打ち込んだはいいものの、いざ成功おさめたら罪悪感がわいてきちゃった?」


 俺にしかわからないように言っている。そんな気を遣えるならもっと他にいろいろ気を遣ってほしいものだが。


「……だとしたら?」

「おもろ! って感じ。案外マジメちゃんだねえ春日井くんは……さ!!」


 六球目、七球目、八球目ファウル。

 夏目は投球の合間合間でしゃべることに夢中だった。


「いいじゃん持ち物は全部使えばさ。あたしはそうするよ。今まで使いみち見つけてなかったけど、今日見つけた。いいねこれ。これがいい。春日井くんが下りた土俵やきゅうで、これからはあたしが天下とるのもいいかも…………ね!!」


 九球目。夢中なまま夏目は投げた。理想的なフォームから放たれる渾身のストレート。

 


 ──カキイン!!


 澄んだ快音。澄んだ手ごたえ。腰の回転で押し出した金属バット、その芯が跳ね返した白球は夏目の頭上をライナーで超え、そのまま田中・遠藤の二遊間を破って外野に落ちた。


「…………あ、あれ?」

「センター前ヒット。俺の勝ちだな」


 淡々と言った。ボールを追って振り返った状態からぎりぎりとさび付いた機械仕掛けのように向き直った夏目は、信じられないものを見たように笑顔をひきつらせていた。ははっざまあ。

 

「ところでなんかごちゃごちゃ言ってたな。わるいけどもっかい言ってくれ。誰が何をどうするって?」

「っ、ッ、…………も、もっかい! もっかい勝負! 次は負けないから!」

「おいおい、言葉のキャッチボールをしてくれよ夏目。顔を真っ赤にしてないで、誰が下りたどこで誰が天下を取ってくれるのかちゃんと教えてくれ」

「まる聞こえじゃん! この冷血!!」

 

 などとやり取りしているあいだに遠藤が外野からボールを拾ってきて夏目に渡した。受け取った夏目は肩をいからせながらマウンドを踏みつけて整えている。どうやらこのまま勝負を二打席目に突入させる気満々の様子だ。

 しかたなく俺もバットをかまえる。

 夏目はさっきとは裏腹に挑みかかるようにこちらを睨んでのセットポジション。足を上げて、投げる。

 ──学んでねえなこいつ。

 俺は内心ため息をつきながらテイクバック。今までコンパクトにスイングをまとめていたのを今度は初球から強振する。快音。


「ちょっ……!?」


 さっきとは打って変わって思い切り引っ張った打球の行方に夏目は泡を食って振り返る。狭いグラウンドながらフェンスを越える大飛球だったが、残念。わずかに一塁線に切れた。

 球審の松野もコールに迷うくらい微妙でホームランと言い張れないこともなさそうだったが、俺は「ファウルだな」と自己申告する。このままなら次も打てる。こだわる必要もない。


「命拾いしたな夏目。まあ、ちょっと寿命が伸びただけだが」

「な、なんで急にぽんぽん打ち始めるの!? ズル! ズルしたでしょ!」

「年季の差ってやつだ。野球なめんなド素人が」


 ズルはない。だが仕込みはあった。

 こいつがパクリ大得意なのは知っていた。なにせ前世じゃ俺の配下を破るたびにその得意技や得意戦術をことごとくトレース&洗練して我が物としやがったクソゲー勇者だ。忌々しいが俺以上の球を投げるということもあり得ると予想した。

 ゆえに罠を忍ばせたのだ。投球ではなくに。

 夏目に手本を見せる前、俺は捕手の中嶋に「かまえたところに投げるから適当にコース散らしてくれ」と伝えた。しかし一球目のあとで方針を変えた。


『同じコースに投げる。残り二球ともそこで構えてくれ』


 マウンド上からサインを出し、中嶋は怪訝そうにしながらもうなずいた。中嶋と試合でバッテリーを組んだことはなかったが、チームのサインを決めていたのは俺だ。問題なく伝わった。

 そしてサインの通りに俺は投げた。中嶋がなんとか取れる程度の球威に落として真ん中やや高め。三球続けて俺でなくとも大体のバッターが得意な『失投』コースに。

 結果、俺をパクった夏目も同じコースに投げた。あるいは刷り込まれた中嶋が同じ場所にミットを構え、そこに投げ込んだか……おそらく両方だろうが。

 そして夏目は一打席目の初球から二打席目の初球に至るまでの十球すべて、ボール半個以内の誤差で同じコースに同じストレートを投げ続けたわけだ。

 どんなに速い球でもコースを変えず緩急もないなら、目は慣れるしタイミングもやがて覚える。最大の山場は三球目で、あれをカットできるかどうかが勝負の分かれ目だった。そこを超えたらほとんど作業だ。幸い目の良さとバットコントロールには自信がある。

 ──まあ、後輩を利用したようで少々気は咎めるけども。

 ちらりと後ろを見ながら思う。一球目はともかくとして、夏目が二球目以降も同じコースを投げ続けたのは、まず間違いなく中嶋がミットを動かさなかった……いや、からだ。

 なにしろ球が速すぎる。軟式の中学生捕手に、プロレベルのスピードで来る硬式ボールに制球の乱れを恐れずミットを動かせと要求する方が無理な話だ。即席バッテリーでろくな信頼関係もないならなおさらだ。逃げずに座っているだけ褒めていい。なまじ球審なんかついたせいで逃げづらくなった可能性もあるかな? だとしたら夏目の墓穴だ。ははっますますざまあ。


「どうする。今からでも下りるか? 俺はどっちでもいいぜ。一回勝つか二回勝つかの違いでしかないからな」


 せせら笑って夏目に問う。ちょっと球が速いだけで天下をとるなどとうそぶいた素人に、思いあがるなと突きつけるのは大変気持ちがいい。


「? おい、聞いてるのか夏目。急に黙るなよ気色わる────」


「────なるほど」


 ささやくような声。マウンドとバッターボックスの距離十八メートル強を超えて、やけに鮮明に鼓膜に届いた。


「──慣れたんだ。同じじゃだめってことか。どんな強攻撃も続けたら効かなくなるもんね。春日井くんのあの自信は覚えた証拠だ。もう効かない。……じゃあどう効かせる? どうかわす? いまさら変えてかわせるもの? ううん、そもそも──」


 左手に握った白球をじっと見つめてぶつぶつとつぶやく内容はわからなかったが、どうやら喋りすぎたと自覚して舌打ちする。

 生まれたてといえどこいつは真性のモンスターだ。夏目勇那にはこれ以上何も与えてはならない。経験はもちろん、野球のおもしろさもだ。その味を覚えたが最後、死ぬまで食い荒らされるという確信に近い予感がある。

 ──退屈に、あたりまえに打ち砕く。

 一野球人としての使命感とともに集中を高める。ブランクは一打席目で解消した。こいつに変化球はない。ストレートの球筋は体に覚えさせた。たとえ今からコースを変えられようと対応できる自信がある。

 夏目はつぶやくこともやめて、いつのまにかマウンド上で天を仰ぎ目をつむっている。試合なら軽く三つは遅延行為ボークをとられるだけの時間をそうして過ごし、呼吸でかすかに肩を上下させてから夏目はようやく目を開く。


「うん。これしかないか」


 ぞっとするほどの集中を帯びた透明な表情に古い記憶がよぎる。

 滅び朽ちゆく魔王の前で聖剣を自らの首に添えて笑む姿。約束された次なる魔王の息の根を生まれる前に止めた哀れな怪物。


「春日井くん。投げるけど、その前にひとつ、一生のお願いをするね」

「なんだ勝負の最中に。打たないでください、なんていまさら言わないだろうな」

「ううん、その逆。使


 意味不明なことを言いながら、夏目はモーションに入──


「は?」


 フォームが変わっている。セットポジションじゃない。正面を向いて腕を大きく振りかぶるワインドアップ。簡潔にいうとが長い、より力をこめられる投げ方だ。最初の間抜けなそれとは違って軸足だけプレートに置いた正しいフォームになっている。

 いや違う。そんなことは問題じゃない。

 左手に握られたボールがまばゆい輝きをまとっている。白をベースに虹色をゆらめかせる忌々しい光輝を俺はよく知っていた。まぎれもなくそれは勇者イサナを選んだ聖剣『一握の火フェアブレイズ』の放つそれと同一のものだ。

 持ち越していたか! よりにもよって!

 聖剣は魂を鞘にすると聞く。とすればありうる話だ。

 ボールに聖剣の属性を強化付与エンチャントした? 何を考えていやがるのだあのクソボケ女は。感じたところ以前ほどの力はない。ないが、俺の知る聖剣の能力そのままを持ち越したのだとすればあの球は──


「──この、」

 頭勇者の狂人が! 必ず打てとはそういうことか!!


 迷う余地はない。遅れれば。コンマ以下の時間を争う状況判断を迫られて俺はたしかにを使った。

 マウンドからホームベースまで距離にして十八メートル強の中空に空間魔法による障壁を展開。次元の断層であらゆる攻撃を阻む防御を三メートル間隔で都合五枚用意したうえで因果の魔眼を発動した。

 因果をるとはすべての事象をつまびらかにし、究極的には宇宙の結末までをも読むことにほかならない。当然そんなものほんの一部だろうと定命の身で処理できる情報量ではない。それを処理できるようになるために魔王アスールは永遠の命を目指した。それは結局叶わなかったが、しかしその道半ばでも近しい未来であれば透かして見ることができた。

 膨大な過去現在の情報から演算し、たどる先を導き出す疑似的な未来視──魔王のときとは比べ物にならないほど貧弱な肉体ではせいぜい二秒先を視るのが限界だが、今はそのたった二秒先の景色をなにより欲した。


「ぐっ……!」


 過ぎた規模の魔法行使と疑似未来視による情報圧で遠のきそうになる意識を、下唇に血がにじむほど食いしばって必死につなぎとめ現在いまの夏目に焦点を合わせる。タイミングとコースまでは見えた。未来で打てたかどうか? 知るものか。あとは合わせて全力でバットを振るだけだ。

 夏目の右足が大きく上がる。セットポジションの綺麗さとは比べようもない、しかし野生的な力強さにあふれたピッチングフォーム。

 踏み込み、そして、投げた。

 球が唸るという表現がある。優れたストレートは回転が生む空気との摩擦で実際に唸って聞こえるが、夏目のそれはほとんど咆哮に等しかった。虹色をまとったボールは鉄壁なはずの次元の断層をことごとく食い破り、貫かれた障壁が生むガラスの砕け散るような甲高い音になお勝る回転音を発して飛んだ。

 一握の火フェアブレイズの主な能力は『干渉無効』と『防御無視』というじつにシンプルなものだ。その刃はあらゆる小細工と守りを無意味にして担い手の敵の命に食らいつく。空間魔法による転送やら反射やらで自滅・同士討ちを好き放題してきた魔王アスールへの殺意にあふれた兵器である。

 だから障壁が突破されるのは織り込み済みだ。目的はボールに強化付与された効果を削ぐこと。なぜならこれを削り切らなければ捕手も球審もミンチになってホームベース周辺に飛び散ることになる。

 腰の回転でバットを押し出す。五枚目の障壁を貫通したボールが迫る。タイミングとスイングの軌道はドンピシャだ。六枚目の障壁をまとわせたバットで、時速160キロの大台に迫ろうかというストレートを迎え撃つ──!


「おおおおおおおお!!!」


 インパクトの瞬間、手ごたえの重さに知らず吼えていた。ボールと障壁が拮抗する。拮抗は一瞬だったが永遠にも感じられた。

 最後の障壁が砕け散る。バットが聞いたこともないような悲鳴を発する。ふっと軽くなった手ごたえに思わずコマのように回転してバランスを崩す。

 

「っ、ボールは……!?」


 俺は起き上がりながらまず後ろを見た。捕手の中嶋と球審の松野はともに生きている。ミンチになどなっていない。まったくの五体満足で、しかしふたりとも尻餅をついて唖然と上を見上げている。

 つられて俺も見上げるより先に、何かがぽとりとフェアゾーンに落ちる。

 だ。

 そしてすこし遅れて、ボールが落ちてきたのを二塁手セカンド定位置にいた田中がキャッチした。平凡なセカンドフライ。俺の負けだ。


「…………ふっ。ははは」


 思わず笑いがこみ上げる。

 いや、だって笑うしかないだろ。なんだこれは。

 勇者のあいつが捕手を人質にとるような球を投げて、魔王の俺が必死こいてそれを守って。折れるわけもない金属バットを折られて。

 挙句の果てに、


「……うひひ、見たか、春日井くん。……あたしの、勝ち~……」


 などと言っているアホ投手は、マウンドからすこし前に出たところでうつぶせにぶっ倒れている始末だ。

 てくてく近づき、無造作に腕を拾って離すとなんの抵抗もなく落ちる。ぐにゃぐにゃだ。どうやらマジで力尽きている。

 さっきのは掛け値なしに全力の投球だったらしい。一球入魂すぎる。そこまでして本当に殺人ボールを投げるやつがあるかバカヤロウ、と怒る気も失せて俺もまたその場に座り込む。

 ……力尽きたのはこちらも同じだ。眼球から伝播する頭痛と全身を包む倦怠感。貧弱な肉体が忌々しい。忌々しいが、


「ふざけんな。まだ一勝一敗だろうが」

「ひひ、残念……勝ちなんだな、これが……バットがなきゃ、打てっこないでしょ……? だから、ここからは続けたぶんだけ、あたしの勝ちになる……勝ち確ってやつっすよ……」


 大儀そうに仰向けに寝がえりを打ちながらどやる夏目の、ばかばかしい理屈にケチをつける気はなぜか起きない。

 どうあれ全力を尽くした。結果が負けであれ気分は妙にすがすがしい。

 

「いいねえ、野球。春日井くん、あたし本当にいいと思う。これ好き」

「……異論はないけど。なにがそんなに気に入った?」

「真剣に、全力でやっても、誰も死んでない。あたしが勇者でも。相手が魔王でも。そんなの最高じゃん」


 真剣に全力で魔王を打倒し、勝利と引き換えに数えきれない死をもたらした女の、それは初めての喜びだったのかもしれず。


「決めたよ春日井くん。あたしこれから野球のチーム作る。──ねえ、一緒にやろ?」

 

 喜びのまま差し伸べられた手と言葉に、俺もまた笑みをもって答えたのだ。


「やなこった」

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