第3話

「おー、いい感じの公園&野球グラウンド! 通りすがりに見ることはあったけど 実際このフェンスの中に入るのは初めてだわ。新鮮ー!」


 てのひらを帽子のつばのようにして物珍し気に野球グラウンドを眺める夏目の斜め後ろで、俺は呆然と立ち尽くしている。

 来る気などなかったのに、どうしてか俺はこんなところにいた。

 すぐに断ろうとして、断りの言葉が出てこなかったのだ。誘いをかけられて言葉に窮している俺を、夏目はまんまと押し込めた。


「……アホなのか俺は」


 受験期間中も体力維持トレーニングの一環として野球道具に触れてはいた。勉強だろうがなんだろうがすべては体が資本だ。体力はあって困らない。気晴らしにもちょうどよかった。

 けれどそれだけだ。は久しくやっていない。

 いうまでもなく、野球はひとりではできないスポーツだ。ただのキャッチボールですら相手が必要になる。

 長らく絶っていたその機会が目の前にころがってきて、誘惑にうっかり負けたといったところか。ちくしょうめ。

 俺はため息をつきながらはしゃぐ夏目に言う。

 

「で、どうすんだ。道具は? 見たとこバットもグローブも持ってなさそうだけど」

「え、知らない。そういうのってグラウンドに落ちてるもんじゃないの? 武器とかアイテムみたいに」

「なわきゃねえだろぶっ殺すぞ頭勇者が」


 いかん、こいつ相手だと必要以上に口が悪くなる。

 まあ、ボールさえあればやれなくはない。このてのグラウンドには拾い忘れたボールがたいてい一個や二個は落ちてるものだ。行儀は悪いが、最低限キャッチボールくらいなら……


「んじゃまあしゃあない、借りてこよっか。ちょうど先客いるし。──ヘイそこの野球少年ズ! ちょいとよろしいかね!」

「あ、おい」


 止める間もなく夏目はキャッチボールをしている男子たちに駆け寄っていった。見たところ中学生くらいの四人グループだ。突然年上の女子に話しかけられて挙動不審気味な野球少年ズに、夏目はこっちを指さしたりしながら説明して……あ。うわ、まずい。

 気づいたときには手遅れだった。野球少年ズは一斉に俺の方に向き直り、勢いよくお辞儀をした。


「「「「お疲れ様です!!!! 春日井先輩!!!!」」」」


 四人分の咆哮めいた挨拶。俺は目頭をおさえて天をあおぐ。


「うっわびびった。……え、なに知り合い?」

「………………全員、中学の後輩だ」


 左から田中、遠藤、松野、中嶋。一学年下の野球部員達だ。よりにもよって今日、なんでこんなところに。


「わあ、マジで春日井先輩だ! お久しぶりです!」

「……ああ、まあ、うん。ひさしぶり田中」

「うれしいなあ。先輩、引退してから練習に全然顔出さないんですもん!」

「俺はえらそうに練習の邪魔をするOBってのが何より嫌いなんだよ遠藤」

「まあ監督はほっとしてましたけど。『引退したあとも春日井に部の実権握られたら俺の立つ瀬ない。やばい。どうしよう』ってしばらく戦々恐々でしたからね」

「放した手綱に興味はないから安心してくださいって監督に伝えて松野」

「てかこのひと彼女っすか? 美人さんですね! すげー!」

「おいやめろ中嶋。おぞましいことを言うな」

「ん? ねえねえ、部の実権ってどういう意味? 小学校のチームみたいにまーた裏から支配してたってこと? ハルくんのカノジョなあたしにおしえておしえて!」

「田中、このバット借りるな。俺はこの女の前歯を全部折ってやらなきゃいけない」


 キャーあたしのカレピコワーイ! とぶった声をあげながら夏目は俺の顔面目掛けて振り下ろした金属バットをスニーカー履いた足裏で華麗にパリィする。高々と足を振り上げた拍子にスカートがめくれてまぶしい太ももと運動用に履いたのか学校指定の短パンが覗いた。チッ、わるくねえふとももだ。そのまぶしさに免じてこのくらいで勘弁してやる。

 ちょっとした暴行事件未満が一般通過したことでみんなが言葉を失っている中、ドン引きからやや立ち直った松野が「え……っとですね。中学のときの先輩は……」と律儀に説明しようとするのを俺は肩にバット乗せながら「言わんでいい」とさえぎり、


「野球するんだろ。それで何すんだ。とりあえずキャッチボールか?」

「うんにゃ。どうせなら勝負しようよ。ちょうどバット持ってるし、春日井くんが打つ方で」


 その意味を理解してから言葉を返すまでに、俺は数秒の時間を要した。


「……夏目、おまえ、ピッチャーできるのか?」

「ボール投げればいいんでしょ? まあできるんじゃない? たぶん。何事も挑戦っしょ」

「ざけんなタコ。ならまず一球投げてみろボケが。……中嶋、おまえキャッチャーだよな。すまんがちょっと受けてやってくれ。あともうひとつすまん、誰でもいいからあのなめくさったクソタコボケ女にグローブ貸してやってくれ」

「先輩、このひとに異様に辛辣っすね……?」


 頼み込むと、突然乱入された立場にもかかわらず全員素直にいうことを聞いてくれる。持つべきものはけなげでかわいい後輩たちである。

 砂をかぶったホームベースの後ろに膝立ちになってミットを構える中嶋。一方、左手にはめた人様のグローブをくんくん嗅いだり……したくなる気持ちはわからんでもない……ボールを物珍しそうに右手でもてあそんだりで、俺は白線の消えかけたバッターボックスからやや外れた場所でそれを観察する。

 

(……硬式ボールだな。今さらだけど)


 今俺の握ってるバットも硬式用のそれだ。中学校の部活野球は軟式だが、遊びで硬式の道具を使ったりするのは野球小僧あるあるだ。

 怪我の危険が増すのでこれから公式大会が控えている彼らにはあまり褒められたことではないが、見ればヘルメットも用意しているようだし最低限気を使ってはいるようだ。なにより借りてる身でとやかく言える立場でもあるまい。


「ふっふっふ、とくと見よあたしの魔球を!」


 さておき、夏目投手のマウンドだ。

 ブラウスの袖を肘まで捲り、なにやら自信満々にのたまいながらの第一球──おおげさに腕を振りかぶって、投げた。

 ガシャン! という金属音が響く。

 放たれた白球は大きな弧を描いてキャッチャーの頭上をはるかに超え、バックフェンスのだいぶ上の方に命中。

 大暴投である。

 しんと静まり返るグラウンド。まあデタラメな投球フォームを見た時点……プレート上で両足横にそろえながら振りかぶってやがった……で予想通りすぎたが、俺も言葉が見つからない。

 夏目投手は「あ、ありゃ……? も、もっかいもっかい!」と再挑戦のかまえ。

 心優しい中嶋捕手がとことこ拾ってくれたボールを受け取っての第二球はしかし、マウンドから三メートルくらいの地面にたたきつけられてボテボテと捕手のもとまで転がった。

 夏目投手、マウンド上で険しい表情。ことくらいは自覚している様子だ。

 腕を組んでやや考え込み、右のてのひらを前に突き出す。


「…………タイム! 我、素人! お手本プリーズ!」

「マジでなんなんだこいつ……」


 呆れる俺に、中嶋捕手をはじめとした後輩たちはおもしろそうに笑って言う。


「あはは、いいですね! 見せてあげればいいじゃないですか先輩」

「マジ!? じゃあそれ、俺打席に入ってもいいですか!?」

「うわズリい! 俺俺俺、その役俺やります!」

「そんなん俺だってやりてえわ! ジャンケンだろそこは!」


 なにやら話が変わってきている。

 とはいえ、たしかにこの状態じゃ勝負そのものが成立しない。


「……わかったよ夏目。三球だけ投げてやる。手本になるかは知らないけど。そのかわり、それでもまともに投げられなかったらその時点でおまえの負けな」


 我ながら無茶な条件だと思ったが、夏目は笑って「ん! オッケー!」と返事をする。


「あと、手本が目的だからバッターはなし」

「「「「えー!? そんなあ!」」」」


 後輩どもの不満の合唱を浴びつつ、俺もグローブを借りて夏目と交代でマウンドに立ち、ボールを受け取った。右腕を回して肩の筋肉を入念にほぐし、それから肘と手首の調子、指先の感覚を入念にたしかめる。

 まずは軽いキャッチボールでマウンドとホームベースの距離感をたしかめつつ、俺は横で立っている夏目に尋ねた。


「というか、なんでわざわざ勝負なんだ」

「だってそうするのが自然じゃない? あたしとあんたが会っちったなら」

「……そうかい。まあべつに、どうでもいいけど」

「うわ、マジでどうでもよさそうな顔。……んー、じゃあせっかくだし何か賭ける? 負けた方がなんでも一つ言うことを聞く、とか」

「またベタなことを……まあ好きにしろ。どうせ負けねえ」

「お、言ったなハルちゃん。忘れんなよー」


 聞き流しつつ、準備を終えた俺はホームベースに向かって半身の姿勢でセットポジション。一呼吸おいて、ゆっくりとモーションに入る。


 ──ところで、野球について説明しよう。


 野球。それは日本国内において、である。

 他の競技のプロスポーツ選手の年棒比較にもそれはあらわれているが、なにより注目すべきは圧倒的な観戦機会の多さだ。

 ひと昔前──俺がこの世界に生まれる前の時代──ほどではなくなったらしいものの、今だって夕飯時にテレビをつければプロの試合が大体見られるし、春と夏にはプロの卵たちの全国大会が集中的に放送されている。おまけにちょっと親にねだって球場まで足を延ばせば、一流のプレーを生で見られる機会が年間140回以上もある。

 この観戦機会の多さというのが俺にとっては大きな意味を持つ。

 非常に品のない話だが──端的に言ってなのだ。


 ズバン! 乾いた、そして耳に心地よい音がミットが鳴らす。壁当てでは得られない、投手にとってはどんな福音にもまさる響きに思わずほほが緩む。

 離れて一年足らずだけれど、ああ、懐かしい。


「うっひぃ、春日井先輩の硬球ピッチングいってえ……! 先輩、ナイスボールです!」

「おう。中嶋もナイスキャッチング」


 因果視によって一流選手たちから写し取った経験値、それをみずからの体に合わせて最適化したオーバースローから繰り出す速球への称賛を、俺は返球と一緒にすまし顔で受け取る。

 これを使って中学校の大会も日本一をかすめとったのだから、とんだ盗人だと我ながら思う。でもまあ、中学校レベルになるとさすがにチームをコントロールするだけじゃ勝ち切るのは難しかったからしかたな──

 

「…………っ!?」


 ぞくりと、寒気がして振り返る。

 夏目が見ていた。

 マウンドのからすこし離れた場所に立って、じっと。さきほどまでのやかましさを思えば、呼吸をしているかも疑わしい静けさをまとって。


「どしたの。続けていいよ」

「……ああ」


 気圧された自分を振り払うように、俺は残り二球を投げた。いずれもブランクはあるがそれなりに満足のいくストレート。

 それを見届けてから夏目は顎に手をやり、


「なるほど」

 

 ねえ、と続けて聞いてきた。グローブをはめている手を挙げながら。


「野球ってさ、左手で投げてもいいの?」

「は?」 

「これ、左手じゃないとつけらんなかったからとりあえずこれでやってたけど、使って」

「───……。使ってもいいけど、ここに左利き用のグローブはない。無理やり右手につける方法もなくはないけど、人様のだからな。型がゆがむ。推奨はできない」

「じゃあ、グローブなしでやるのはアリ?」

「ナシというルールはないな」

「ん、おっけ。じゃあやろっか」

 

 俺はボールを夏目に渡し、交換でグローブを受け取ってマウンドを離れる。

 そして二つ分のグローブを後輩に返却して、ヘルメットをかぶり、金属バットで軽く素振りをしながらピッチャーから向かって左側のバッターボックスに立つ。


「あはは、どうしたんですか春日井先輩、メットまでかぶっちゃって。やる気出しちゃいました? でも、さっきのボール見たじゃないですか。そんな気合い入れなくてもどうせ……」

「中嶋、おまえ、野球歴何年?」


 バットを構える。マウンド上でたたずむ夏目を見据える。俺をまねてか、左の肩と体のあちこちを入念にほぐしている女を。

 ……ああ、いやな気配がする。いやな記憶がよみがえる。

 

「え? えーと、小学校四年生からだから……今年で六年目ですかね。でもなんですか急に」

「そうか。……まあ、うん。なんだ。俺は覚えがあるからいいけど、何が起こっても気にすんなよ。念のため」

 

 しばし瞑目していた夏目はやがて半身になり、プレートの前に横向きの両足をそろえる。腹の前で両手でボールを保持する。俺と同じ、お手本のようにリラックスしたきれいなセットポジション。

 一呼吸おいて、ゆるやかに足が上がる。一ミリのぶれもなく安定した軸足。そして──

 

 ────ズバァン!!!


 ミットを激しくたたく乾いた音。

 脱力から渾身の解放。野球歴十分未満の左腕が放ったそれは見事なストレートフォーシーム。腕を振り切り前のめりになった夏目は、みずから放った未知なる快音に歓喜の笑みを浮かべた。

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