17
鏡花先生は、『尼ヶ紅』を完成させ、この数日は実にのんびりと暮らしている。好物のあんパンも散歩がてらにご自分で買いに行くのだった。
お八つには先生が買ってきたあんパンを御相伴にあずかった。
「きみの働きで人一人の命が助かったのは尊いことだね」
僕はあんパンを喉に詰まらせそうになった。先生から最上級のお褒めの言葉をいただいて、こんな嬉しいことはない。
しかし先生は武四郎が犯人ではないかと、ずっと前に気づいていたようだ。ただ白蛇のせいで先生自身が動き回れなかったので、確信が持てなかったらしい。
遠くへ行くと言い置いて去った武四郎のあとを僕は追いかけた。なんといっても逗子は、律たちにとって思い出の多い場所である。もし武四郎が死ぬことを考えているのなら、小坪海岸ではないかと律は言う。そこには海に突き出た大崎という断崖絶壁があり、中腹に八大竜王大神のお
「武四郎はそこの崖を上り下りするのが得意で、まごついている私の手を取ってくれたものです」
お社から海を見ると地球が丸いことがよくわかる、と言って三人はいつまでも海を見ていた。
「あそこは武四郎のお気に入りの場所でした」
律がそこに違いない、と言うので僕は大崎に急いだ。教えられた通りに藪をこぎ、断崖を下りて八大竜王大神へ行くと、武四郎が鳥居の柱にもたれて座り、ぼんやりと海を見ていた。
僕が来たことに多少驚きはしたようだが、すっかり死ぬ覚悟はできていたようで、立ち上がり崖の突端に向かって歩き始めた。
僕は橘が一命を取り留めたことを話し、あなたが死ねば律さんがどんなに悲しむか、と諭すと膝を突いて涙を流したのだった。
武四郎は自首をした。深く反省しているということで、たぶん罪一等を減ぜられることになるだろう。
誰も死なず、武四郎は罪を償うことになったことを、鏡花先生は僕の手柄だと言ってくれるが、実に僕は、右往左往していただけであるのでなんとも気恥ずかしい。
ふと見ると、先生はあんパンを食べ終わるところだった。人差し指と親指でつまんだところ以外をすっかり食べてしまい、指に挟まれた部分のみが残っている。それを、ひょいと口に入れるのだろうと思って見ていると、なんと、なんの
「あっ、先生。捨てるのですか?」
あんなにあんパンが好きなのに、なぜ最後の一口を食べないのか、僕には解せなかった。
すると先生はすました顔で言った。
「当然です。指でつままれた部分には
了
水鏡花の幻 第三話 幻往来 和久井清水 @qwerty1192
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