16

 逗子の療養所には律の母親がいて看病をしていた。ついさっきカヨの家の下男が来て、すべてを話してくれたという。

「カヨさんがそんなことをするなんて信じられませんわ。これからいらっしゃるということですから、なぜそんなことをしたのか、聞かせていただこうと思っていますの」

 母親は律共々、この件をどう考えていいか気持ちの整理がつかないのだという。

「それで今、武四郎と二人で話をしていますわ。武四郎は賢い人ですから、律も頼りにしているのです」

「武四郎さんが来ているのですか?」

 僕の心臓が早鐘のように打った。

「ええ、昼前にやってきて、なんだか律に話があるとかで」

「武四郎さんは、まだ律さんの病室にいるのですね」

 僕が慌てているので、母親は訝しげな顔で病室まで案内してくれた。

 病室は一人部屋で、窓際に寝台ベッドがあり、そばの卓子テーブルには水差しと赤い花を挿した花瓶が置かれていた。窓からは美しい緑の丘が見えている。

 律は半身を起こしてぼんやりと窓の向こうを見ていた。

「律、このかたが寺木さんですよ。カヨさんのことを、すっかり律だと思っていた人ですよ」

 律は僕を見て微笑み、頭を下げた。なぜか悲しそうな顔をしている。

「あ、そうだ。ご報告しなければならないことがあるのです。橘さんの意識が戻ったのです。快方に向かうだろうということでした」

「まあ、よかったわね、律。いろいろと誤解もあったようですけれど、なにもかも良くなるわ。橘さんも全快して、誤解が解けて、またもとのようにお付き合いができますよ」

 母親は嬉しそうにはしゃいだ声を上げた。

 しかし律はなにかに気を取られているように、悲しみに沈んでいる。

「武四郎さんがおいでと聞きましたが、どちらにいらっしゃるのですか」

 律は目を上げた。涙を一杯に湛えている。

「どうかしたの? 律」

 母親も不安げに声を震わせた。

「武四郎は遠くへ行きました」

「遠くってどこなの?」

 律ははらはらと涙をこぼした。

「武四郎は自分の罪を告白に来たのです。私を思うあまり、とんでもないことをしたと。橘さんは死んでしまったと思い込んで。私の前から姿を消すと……。もう二度と私の目に触れることはないから許してくれと言って……」

「まあ、一足違いだったわね。でもどうして……。武四郎はどんな罪を犯したというのです?」

 母親はまったく気づかないようだが、武四郎が橘を刺したということだ。武四郎もまた律を好いていたということなのか。

「武四郎は私のことを妹のように思ってくれていました」

 律は手巾ハンカチで涙を押さえながら言った。

「橘さんとのこともいつも応援してくれていたのです。私が病気になった頃、橘さんからの手紙が途絶えました。いくら手紙を書いても返事が来ないのです。武四郎も最初は心配していたのですが、橘さんの手紙が来ないせいで私の病気が重くなった、とひどく腹を立てるようになりました」

「それで橘さんを刺したというのですか?」

 しかし、どうやってあの夜、橘が高燈籠に来ることを知ったのだろう。

「あ」

 僕は小さく声を上げた。銀行の課長が言っていたではないか。あの日、律と会う喜びで気もそぞろだった橘に、課長は残業をせずに帰っていいと言ったところ、人と会う約束があったにもかかわらず帰ってしまったと。約束をしていた人というのは武四郎のことではないだろうか。そして銀行員のだれかから、橘が女性と会うことになっているとでも聞いたのだろう。

 律が聞いた話は、やはりそうであった。橘が律以外の女性と会うと知って逆上し、橘のあとを追いかけたという。高燈籠で会うということも、橘の同僚から聞いていたようだ。

「こちらへはご家族でよくいらしたそうですが、武四郎さんも来たことはありますか?」

「ええ、武四郎もよく来ていました」

「武四郎さんの行きそうなところに心当たりはありませんか?」

「でも遠くへ……。まさか、死のうとしているということですか?」

 その時、戸がさっと開いて涼木老人が入って来た。そしてがばりと床に両手を突いた。

「どうか息子を許して……。いや、とても許されることじゃない。どうかこのまま死なせてやってください。死んでお詫びをするというなら、思い通りにさせてください」

「そんなわけにはいきませんよ。きちんと本人に詫びて罪を償うべきです。なんといっても橘さんは一命を取り留めたのですから」

「え?」

 涼木は顔を上げた。

「橘さんは助かったんですか」

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