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「先生、待ってください。どうしたのですか。急に」

 僕は挨拶もそこそこに律の家を出て、先生のあとを追った。

 しかし先生は振り向きもせず、恐ろしいほどの速さで通りを歩いて行く。そしてとうとう先生の家に帰って来てしまったのだった。

 家ではすずさんが、「お帰りなさいませ」と玄関で出迎えた。

「お茶を持ってきてください。私は仕事があるので」

 先生はそれだけを言うと二階へ行ってしまった。

「どうしたのでしょう」

 こう訊いたのはすずさんではなく僕だ。今まで一緒にいたのは自分なのに、こんなことを訊くのはおかしいのだが訊かずにはいられなかった。

 先生の家では、黴菌ばいきん殺滅さつめつするためにいつでも熱湯が沸いている。僕はすずさんに教えてもらったように熱々のお茶を熱々に熱した湯飲みに入れ、二階へ持って行った。

 先生は早くも原稿用紙の前で集中している。邪魔をしないように、そっと文机ふづくえの端に湯飲みを置いた。執筆中の小説は高潮クライマックスを書き終え、そろそろ結びの段に入るところのようだ。

 原稿の標題タイトルは『尼ヶ紅』である。先日、慈光院じこういんの尼僧が寺男に殺された事件を題材にしたものだ。

 作中では江口順三を江崎順吉と変え、実際は陸軍大尉だったが海軍大尉に変えている。

 日露戦争の勝利はあの華々しいバルチック艦隊撃破にある。勝利の華々しいイメージと、江崎のトラウマとが良い対比になっている。

 舞台は第一話の『悪獣篇』と同じく逗子である。それは主人公を海軍大尉としたことと関係があるのだろう。海の幻象イメージ横溢おういつする効果を狙ったのかもしれない。

尼僧が江口の妻に嫉妬していたというのは、六兵衛の嘘だったのだが、作中では鏡花先生はそれを物語の鍵として、女の恐ろしさと蛇の執念深さを掛け合わせるかたちで恐怖をあおる。

 あの事件も恐ろしいものだったが、『尼ヶ紅』はさらに恐ろしく、蛇の気持ち悪さが読むものの心と体を蝕むほどだ。

 あれほどの気持ち悪さ恐ろしさ、それと同時に幽玄さを表現できる作家、泉鏡花を今さらながらに空恐ろしいと感じた。

『尼ヶ紅』は春陽堂の「新小説」という雑誌に掲載されるはずだ。間違いなく好評を博すだろう。

 僕はお邪魔にならないようにそっと書斎を出て、階下へ下りた。

 すずさんは長火鉢の前で僕を待っていた。昨夜からなにがあったのかを聞くためだ。

 僕は橘と会うことを内緒にしていたことを謝った。そして橘が刺されたこと、霧山律の家での母親との会話を包み隠さず話したのだった。

「わからないのは、霧山律さんの家で、なぜ先生は急に帰ってしまわれたかということです。僕も先生に続いて帰って来たのですが、話が途中だったはずなのです。僕は律さんのお母上に、もっと訊きたいことがあったのに」

「それは残念でしたわね」

 すずさんはなにが可笑しいのか、袖で口を押さえ笑っている。

「でも、アレが出たのでしたら仕方ないのですわ」

「アレとは蛇のことですか?」

「ええ、先生は蛇が大嫌いなんです」

「そんな馬鹿な」

 僕は二の句が継げなかった。『尼ヶ紅』は始めから終わりまで、あのおぞましい蛇が登場するではないか。しかも主人公は蛇のぎもを呑み込むのである。思い出すだけで主人公と同じように、胸に生き肝がつかえたようになって、僕は生殺しのおくびが出たものだった。

 その時、二階から先生が下りてきた。執筆がはかどったのか清々しい顔をしている。

 すずさんはお茶と最中もなかをお盆に載せて持って来た。先生はそれを美味しそうに食べて一息つくと、僕に言った。

「寺木君、霜山さんの家にもう一度行ってきたまえ。あそこの奥さんが言いかけたことがあったでしょう。お父上も手紙が来ることは承知していると言って、そのあとなにかを言おうとしていました。それを訊いてらっしゃい。そしてできれば律さんの写真を見せてもらいなさい。そうしたら盛田という郵便配達夫にも会わなければならないことがわかるでしょう。もし私の推理が正しければ、見つけなければならない人物がでてくるはずです」

「わかりました。では先生もご一緒に」

 すると鏡花先生は大きくかぶりを振った。大きすぎて身震いしているようにも見える。

「私は行きません。アレの住む家ですからね。いくら縁起のいい白いアレでも、家に近寄るのも御免蒙ごめんこうむります」

 まるで子供のようにムキになって言うのを、すずさんが笑いながら見ていた。

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