10-2

 母親は言いかけた言葉を言わないことにしたようだ。

「橘さんのお怪我はどんなぐあいですか?」

「それが重傷なのです。まだ意識不明で……」

「まあ、どうしてそんなことに」

「警察は通り魔の犯行ではないかと言っています」

「そうですか」

 母親は沈んだ顔で目を伏せた。と、ふいに僕たちが何者なのか、という疑問が頭をもたげたようだ。

「あのう、律とはどういう……」

 僕は初めて律にあった日のことから、丁寧に説明した。母親は僕の真面目さにいたく感動したようであった。

「そういえばあの時、涼木さんとおっしゃいましたか、ご老人がいらっしゃいましたね。病気快癒のご祈祷をされたのですよね。その甲斐があったというものですね」

「ええ、そうなんですよ。武造たけぞうはとても熱心に祈祷してくれまして。それに武四郎もほんとうに律のことを思ってくれるのです」

 あの老人は武造という名前らしい。母親は涙ぐんで目頭をそっと押さえた。

「武造さんの息子さんですが、あのかたもいい方ですね。律さんのことを妹のように思っていると言ってました。律さんがあんなにお元気になられて」

 母親は小首をかしげた。

「それでは律のところへわざわざ?」

「ええっと。はい。今日は……」

「そうではなくて、律にお会いになったのは……」

 なんとなく話が噛み合わないと思いつつ、僕は四、五日前に九段坂で会ったことなどを話した。

 母親は眉根を寄せ、僕の顔を見つめた。

「そんな馬鹿な。ありえません」

「いえ、本当です。僕はたしかに律さんと話をしました」

 あの日見た舞い踊る白い蝶だって、ありありと思い出すことができる。

 母親の顔がみるみる青ざめていく。

「律は……。律はどんな様子でしたか?」

 僕は鏡花先生と顔を見合わせた。先生も不審そうに眉を寄せた。

「どんなと言われましても……。お綺麗でお元気そうで……」

 婦人が顔を覆い、わっと泣き出した。

「それでは律は……」

「どういうことですか」

「律はひと月も前から逗子で療養しているのです」

 母親が言うには、一月前には死ぬか生きるかというほど病状が重かったが、入院したおかげで少し良くなり逗子で養生しているという。ずっと付き添っていたのだが、律の回復はめざましく、これなら大丈夫と思ったのだそうだ。東京の家のことも心配なので先週戻って来たが、明日にはまた逗子に戻ることになっていたという。

「ほんの何日かの間に律の容態が悪化したのですね。それで迷って出てきたのね。ああ、どうして電報ででも知らせてくれないのでしょう」

 婦人はさめざめと泣いた。

「え? 迷って?」

 僕がなんのことやらわからずにいると、鏡花先生が袖を引いた。耳元で囁く。

「律さんという人は逗子で亡くなったらしい。きみが会ったのは幽霊の律さんだと言っている」

「ええっ」

 僕が叫ぶのと、先生が「キャー」と悲鳴を上げるのが同時だった。

 先生はつま先立ちになって僕にしがみついている。

「先生、どうしたのですか? 先生」

 鏡花先生がこんなふうに恐慌パニックになるのを初めて見た。

「見えたのですね。先生も律さんの幽霊が見えたのですね」

 しかし僕には見えない。

「えっ? 律が? 律の幽霊がいるのですか? どこに?」

 律の母親も中腰になり、青ざめた顔で家の中を見回している。

 がたがた震えながらしがみついてくる先生の腕を取って、「どこですか? 律さんはどこなんですか?」と訊いた。

 先生はなにかを言おうとしているが声にならない。震える指で玄関の三和土たたきの隅のほうを指さした。

 母親と僕は指された先を見る。

 五寸(十五センチ)ほどの白蛇が、ちょうど上がりかまちとの隙間に、するすると入って行くところだった。

 鏡花先生は懐紙を口に当てて、「おえっ」というような変な音を喉のあたりから出した。

「白いナニですな。縁起がいい。お嬢さんも、もうじき全快なさるでしょう」

 言葉とは裏腹に、先生は苦い顔をしている。

「え」

 僕と母親は呆気にとられて宙に視線をさ迷わせた。

 鏡花先生はそんな僕たちを尻目に、「それでは私はこれで失礼いたします」とそそくさと玄関を出たのだった。

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