10-1

『九段坂を上りきったところですの』

 律は家の場所をそう言っていた。霧山という苗字も多くはないだろうから、すぐに見つかるはずだ。

 はたして律の家はすぐに見つかった。中学の教師と聞いていたが、立派な門構えの大きな家だった。ひょっとすると代々裕福な家系なのかもしれない。

「ごめんください」

 僕は引き戸を開けて家の奥に向かって声を掛けた。

 少しして若い女中が現れた。

「こちらのお嬢様にお会いしたいのですが」

 女中は怪訝そうに僕と先生を見て、「お嬢様はおられませんが」と言った。

 どこかに出掛けているらしい。女中の目は僕と先生を胡散臭うさんくさい男だと思っているようだ。

「私たちは怪しいものではありません。こちらの律さんにお伝えしたいことがあって参ったのです」

「少々お待ちください」

 女中が奥に引っ込むと入れ替わりに、律の母親と思われる婦人が現れた。丸髷をきっちりと結い上げ、地味な小紋を上品に着こなしている。

「律に御用とか。どちらさまでございましょう」

 婦人は訝しげに小首をかしげた。

「私は寺木定芳さだよしと申します。そしてこちらは……」

 鏡花先生を紹介しようとすると、「私は泉と申します。まあ言ってみれば寺木くんの親代わりのようなものです」と先生は早口で言った。

「はあ、律のお友だちでしょうか」

 婦人は僕と鏡花先生の顔を交互に見ていたが、最後は僕のほうを向いて言った。

「実は律さんのお知り合いが怪我をされましたので、お知らせにあがりました」

「まあ、どなたですの?」

 僕は橘の名前を出していいものか迷った。橘から手紙が来ることは両親は知っているのだろうか。だがここで、「あなたの娘さんが秘密にしている男ですから」などと隠せば事態は悪い方へと進むだろう。律は、「父親が怒るので」と言っていたのだから、ひょっとすると母親は知っているかもしれない。

「橘幸三さんという人です」

「橘さんが」

「橘さんをご存じでしたか」

 僕は少なからずほっとした。もし母親が知らなかったら、あとで律に叱られるところだった。

「実を言うと話していいものかどうかと思っていたのです。しかしお父上にはお話ししないほうがよろしいのですよね」

「え? どうしてですか?」

「男性から手紙来ることをふしだらだとお思いになっているとか」

「あら、そんなことはありませんわ。主人も橘さんから手紙が来ることは知っております。ただ……」

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