8-1
刺された男は持ち物から橘幸三とわかった。今、橘は病院の
なかなかの二枚目だ。律の話によれば銀行員だというから、結婚するには申し分のない相手と言える。それなのに橘をふって僕と交際しようというのだからわからないものである。
一瞬、頬が緩みそうになって僕は唇を固く結んだ。橘は意識不明の重体で、予断を許さない状態なのだ。
「寺木くん、霧山律という女性はどういう人なのだね」
警部に事の次第を説明した時は、そばに鏡花先生もいた。だから律についても一応の事は知っているのだ。そのうえで訊くのは、律とはどの程度の仲なのかということだろう。
この時になって、僕が今夜のことを先生に秘密にしていた理由がようやくわかった。
実際、律のことをよく知っているとは言い難い。ほんの数回会っただけで、律の頼み事を軽々しく引き受け、こんな事件に巻き込まれてしまったのだ。先生は僕の軽挙妄動を
「実を言いますと……」
鏡花先生の前で嘘やごまかしはあり得ない。律とはそれほど深い仲ではないことを白状した。そして律を初めて見た時のことを話した。
無縁坂で出会った瞬間のこと。
病院の廊下で、彼女は死ぬものと諦めたこと。
九段坂で再会した日のこと。
「一目惚れと言うわけですか」
鏡花先生は、ふふっと口をすぼめて笑った。
僕は自分の顔が赤くなるのを感じた。
「そうに違いありませんが、病院で彼女のことをよく知る人に話を聞きました。僕が思っている通りの人でした」
僕はむきになって説明した。兄妹同然で育った涼木武四郎がどんなふうに律のことをはなしていたかを。
「律さんがどれほど素晴らしい女性であるかは、彼の話を聞けばわかります。ただ美しいだけではないのです。律さんは……」
「ははは。わかりましたよ」
鏡花先生は僕の言葉を遮った。
「しかし、橘という人から恋文をもらって困っているのなら、まず父親に相談するのが普通ではないのかね」
「父親は中学の教師でとても厳しい家らしいです」
恋文が届くと父に叱られるので、手紙は郵便配達夫に頼んで郵便局で受け取っていることなどを話した。
懐手をして話を聞いていた先生は、ぐっと眉根を寄せた。
「私は警察が言うような通り魔ではないと思っている。だがもし通り魔だったら、刺されていたのはきみだったかもしれないのだよ」
先生は僕のことを心配してくださったのだ、と思うと胸が熱くなった。
「魔というのはだね」
先生は窓のそばへ行って外を見ながら言った。僕も並んで外を見た。空は白みかけてきたが、遠く上野公園の緑はまだ黒く沈んでいた。
「人のちょっとした迂闊な言動につけいるものなのだよ。寺木くんが私に、今夜の事を話していたら安全だったかと言えば、それはわからないが、なにかが違っていた可能性はある。この世は危うい
先生は遠くの景色を見ながら、「なんにせよ、きみが無事でよかった」とつぶやいた。
僕は先生の気持ちを受け止め、「もう二度と、ご心配をおかけしません」と心の中で誓った。
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