うしごめぼりまで一気に走ったあと、靖国神社を目指してゆっくりと歩いた。約束の時間には間があったからだ。

 少し行くと遠くにたかとうろうの明かりが空にぼんやりと見えた。高燈籠は品川沖を行く船の灯台の役割も果たしているという。今は闇に沈んで見えないが、昼間なら靖国神社の青々としたしゃそうが見えるはずだ。

 人通りは少なく、遠くで犬の吠える声が聞こえるだけの寂しい道だ。

 律は自分の名前で橘を呼び出すという。

 こんな暗い夜に若い娘が外を歩くなどということは普通は考えられない。橘もそんなふうに疑って、来ないのではないだろうか。

 僕は橘が来ないほうがいいと思っているらしい。

「弱気になってはだめだ。橘にがつんと言ってやらねばならない」

 僕は拳を握りしめて気を吐いた。

 しかし身の丈六尺で筋骨隆々たる大男だったらどうしよう。そのうえ凶暴な性格で、律さんの代わりに僕が来たことを知ると、棍棒のような腕で僕をぶちのめすのではないだろうか。

 ぶるりと身震いをした。

「僕は恋のためにこの身を捧げる覚悟だ」

 声に出して言うと少し気持ちが落ち着いてきた。

 高燈籠は遠くから見る限りでは、その場所を明るく空に向かって照らしていた。だが高燈籠の真下に来ると、そこは真っ暗闇と言わないまでも「あやかず」程度の暗さであった。

 この時になって僕は、橘幸三の人相風体を律から聞いていないことに思い当たった。だがすぐに、この時間にここへ来た男に、「橘さんですか?」と問えばいいことに気が付く。

 口の中で僕は台詞の練習をする。「橘さんですか? 僕は霧山律さんの代理人です。律さんはあなたのことをとても怖がっています」うん。怖がっていますというのは、なかなかいい言い方だ。好意を抱いている女性から怖がられる、というのは打衝ショックに違いない。

 相手が動揺している間に、僕はたたみかけるように言う。「律さんは迷惑しているのですよ。恋文を送るのはもうおやめなさい。あなたがいくらがんばっても無理なのです。律さんには好いた人がいるのですから」そして、その人こそこの私である、と胸を張って言う。

 大丈夫だ。これできっとうまくいく。もし殴りかかってきたら、潔く殴られようではないか。まさか命までは取られないだろう。僕の顔にできた痣を見て、律さんはきっと僕の勇気に感動するに違いない。そうなるとむしろ一発くらいなら殴って欲しいとまで思った。

 暗闇の中から足音が聞こえる。足音は二人だ。二人は連れではないようだ。一人の足音は遠くから小走りに近づいてくる。

 そして少しの間を置いて、「あっ」という男の叫び声が聞こえた。

 どさりと何かが倒れる音がする。

 目をこらせば人が倒れている。その上からもう一人が覆い被さるようにしている。

「どうしました」

 僕が駆け寄ると、屈み込んでいた人影がさっと立ち上がって走り去っていく。

「おい、きみ」

 声を掛けたが、無情な闇がその姿を呑み込んでしまった。

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