僕は今日一日を落ち着かない思いで過ごした。それでも晩ご飯はしっかりお代わりをした。

 仕事を終えた鏡花先生と夕食をともにするのは無上の喜びだった。先生と文学談義に花を咲かせていると、まるで自分も文士になったような気がする。先生は僕の学友の話も面白がって聞いてくれる。それをいいことにヤクザと喧嘩して大怪我をした男の話や、人妻にちょっかいを出して夫に追いかけ回された友人の話などをした。

 すずさんも僕の話を聞いてよく笑ってくれる。すずさんは先生の奥様なのだが、奥様と呼んではいけないと言われている。

 最近その理由がわかった。マツさんが教えてくれたのである。マツさんは隣の家の女中だ。なぜかこの家にたびたびやって来て、我が物顔に振る舞ったあげく、先生と僕を殺人事件の現場に連れて行くのだった。

 不思議なことではあるが、もっと不思議なのは先生の家の近くにある煙草屋と飯田町にある僕の下宿にもそっくりな婆さんがいる。それぞれタケさんウメさんというのだが、三人があまりにも似ているので、僕は彼女らを見ると自分の頭がどうかしてしまったのかと思うのだった。あとで、三人は姉妹だと聞いてなるほどと思ったものの、やはり得体の知れない婆さんたちだった。

 三姉妹の長女であるマツさんは、用もないのに先生の家にやって来るわけではなかった。マツさんは先生とすずさんにとって、ある重要な役割を果たしていたのである。それは鏡花先生の師匠である尾崎紅葉先生が、前触れもなくここにやって来た時に二人に知らせる役目だった。なぜそんなことをしなければならないかというと、先生とすずさんは正式に結婚しておらず、なおかつすずさんの存在を紅葉先生に内緒にしているからなのだ。

 そうとは知らず紅葉先生は、愛弟子である鏡花先生の結婚相手をずっと探している。偉大な文士となる泉鏡花にふさわしい相手は、見目麗みめうるわしく心根の優しい女性であること。そしてもっとも重要な条件として裕福な良家の子女であることだった。要するに鏡花先生の出世のための女性を探しているのである。

 師匠の気持ちを嬉しく思いながらも、鏡花先生はある日、意を決して話したのだそうだ。

「実は好きな女がおりまして」

「ほう、それはどこのだれだ」

 紅葉先生の目がギラリと光った。弟子の嫁は自分が決める、と公言している紅葉先生である。弟子を思えばこそのことだが、こうと思い込んだら決して自分の考えを曲げない人であるから、もう、それだけで不機嫌になった。

「はっ」と鏡花先生は平伏し、そのままの姿勢で、「吉原の芸者でございます」と言った。

「ふん。いいじゃないか」

 鏡花先生は顔を上げた。

「あの、いいのでございますか?」

「ああ、芸者の一人や二人、めかけとして囲うのは男の甲斐性だ」

「あ、いえ、そのう……」

「おまえの嫁は俺が探してくる。その芸者のことで焼き餅を焼いたりしない、賢い女をな」

 そう言って紅葉先生は豪快に笑った。

 それ以来、鏡花先生はすずさんのことを口にすることができなくなってしまった。互いに惚れ抜いていた二人だから、一日も早く一緒になろうと、鏡花先生が身請する算段をすでにつけてあったのだ。

 仕方なく二人は紅葉先生に隠れて一緒に住むことになった。

 近所の人には女中だということにしている。それで僕にも奥様とは呼ばず、すずさんと呼ぶように言うのだった。

「すずさんは良家の子女という条件以外は、ばっちり当てはまっているのになあ」

 美しくて優しいすずさんの顔を思い浮かべながら、マツさんに言った。

「紅葉は頑固者だからねえ。鏡花先生は言い出す機会を窺っているんだよ」

「すずさんが可哀想だなあ」

「まったくだ」

 マツさんは首を横に振ってため息をついた。

「ところでマツさんは、どうしてそんなに詳しく知っているんですか? 鏡花先生から聞いたのですか?」

「そりゃあ、あんたのような若造とは違うよ。年を取るといろんな能力を獲得するのさ」

 長生きした猫が猫又になるようなものだろうか。僕をけむこうとしているらしいが、おおかた仲のいいすずさんから聞いたのだろう。

 先生のお宅で夕食をいただいたあとは、いつもはしばらくお喋りをしているのだが、今夜は、「ちょっと用がありまして」と言って早々に辞去した。鏡花先生にはなんでも喋ってしまう僕だが、今夜、橘と会うことはなんとなく秘密にしておきたかった。

 表通りに出て煙草屋の前を通ると、ちょうどタケさんが店仕舞いをするところだった。三姉妹の次女である。マツさんとウメさんにそっくりなので、煙草屋の前にいなければタケさんとはわからないだろう。

「おや、あんたどこへ行くんだい?」

「ぼ、僕は下宿に帰るところです」

「へええ、そうかい」

 すくい上げるように見る目が、今にも怪しく光りそうだった。

「寄り道しないで帰りなよ」

 なにもかも見透かされているようで怖くなった。僕はものも言わずその場を走って逃げたのだった。

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