橘幸三は昨日受け取った手紙のことを考えていた。しばらくぶりに律から届いた手紙には、ごく素っ気なく『話があるので会いたい』と書いてあった。どうして返事をくれなかったのか、なにをしていたのか、一つも書いてなかった。あれほど心を許しあい将来を誓い合った仲なのに、この醒めた手紙はどういうことなのだ。

 しかし橘は自分の中に恨む気持ちを探そうとしたが、どこにもなかった。むしろ律からの手紙をこの上もなく嬉しく思っている自分に驚いた。たかとうろうの下で待っているという、たったそれだけの手紙がこの上もなく尊いものに思えた。

 ただ時間の指定が腑に落ちない。夜の八時に律は家を出て来られるのだろうか。律の父親は中学の教師だ。常日頃、娘の行状にはことに厳しいのだ。だから律に会うにしても、なかなかに苦労したものだった。それでおのずと手紙のやり取りが多くなったが、それすらも途絶えてしまい、律の家に出向く勇気もないままに、ずるずると無駄に日々を過ごしてしまったのだった。

 その間、自分は律に嫌われたものと思い、なぜ嫌われたのかとか、なにか失礼なことを言っただろうかとか、他に好きな人ができたのだろうか、などということばかりを考えていた。

 だからこの手紙をもらった時の喜びは、天にも昇るような心地だった。今すぐにでも仕事をほっぽり出して駆けつけたいくらいだ。

「橘くん、どうしたのだね」

 橘ははっとして声の方を向いた。堀米ほりごめ課長が気遣わしげにこちらを見ていた。

 自分がどこにいるのか思い出して冷や汗をかいた。手にはくしゃくしゃになった伝票の束が握られていた。

 橘の職場は日本橋にある東京銀行だ。店舗はすでに閉店し、行員は全員が事務仕事に追われていた。今日は月末も近いので、なかなかに忙しく、橘も残業する予定だった。

「顔が赤いぞ、熱でもあるんじゃないのかね」

 堀米は心配そうに橘の額に手を当てた。この人は部下のことをまるで家族のように思い、気遣いをしてくれる。橘は特に好かれているようで、いつもこんなふうに優しい言葉をかけてくれるのだ。

「橘は今日はデイトなんですよ。恋文を朝から何度も出して眺めては、ぼんやりしているんです」

 隣の席の行員が、にやにや笑っている。

「ははは、そうか。それなら今日は仕事にならないだろう。もういいから早く恋人に会いに行きたまえ」

 周りの同僚たちが忍び笑いをもらす。

 橘は、「それでは失礼して」と頭を下げて、いそいそと銀行を出たのだった。


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