3-2

 すぐそこの茶屋で話をしたいと言う。願ってもないことで、僕と彼女は二人並んで床几しょうぎに腰掛け甘酒を飲んだ。

 彼女は霧山律きりやまりつという名で、父は中学校の教師。屋敷は九段坂を上りきったところにあるという。

 僕は自分が早稲田の学生であり、泉鏡花先生の弟子だと伝えた。すると律は笑顔になって、「まあ、それではいずれ尾崎紅葉のような文士になるのですね」と言った。

 自分は鏡花先生の弟子であって、たとえ鏡花先生が紅葉先生の弟子でも、目指すところはあくまでも泉鏡花のような幽玄な文学なのだと説明しようとしたが、律がもし自分の言っていることが理解できなければ、今日限りの間柄になるかもしれないと恐れた。それで、「ええ、まあ」と曖昧に微笑んだ。

 僕は心の中で自分を殴りつけた。恋のために、泉鏡花こそ日本で最高の文士であると言えなかったことが情けない。

『僕が目指すのは、泉鏡花のような文士です』

 今からでも遅くはない。男らしく律にはっきりと言おう。意を決して口を開き掛けた時、郵便配達夫がこちらに向かってやって来た。濃紺の洋装で、頭に被った丸笠と袖口に赤い「〒」の徽章が付いている。この制服がハイカラだと評判で、郵便配達夫に憧れる人が多いという。なるほどこの男もすらりとした体つきによく似合っている。目元も涼しく温和な顔をしていた。

「お嬢さん、律さん。手紙が届いています」

「あらそう」

 律は少し困ったような顔をした。

「例の手紙です」

 配達夫は声をひそめて言ったが、かすかに聞こえる声と唇の動きでそう言っているのがわかった。

「じゃあ、いただくわ」

 配達夫と律は意味ありげに小さくうなずき合った。

 郵便配達夫と顔見知りで、しかもこんな往来で手紙を受け取るとは妙に感じた。

 律は手紙をすぐに懐に仕舞ったが、宛名はたしかに「霧山律様」となっていた。

 郵便配達夫は行ってしまった。

 律と僕に気まずい間が生じた。すると律が僕の膝に手を置いて言った。

「あのう、あなたが私のことを気に掛けてくださっていたことに甘えて、お願いをしてもよろしいでしょうか」

 律は恥ずかしそうにうつむいて小声で言った。

「もちろんですよ。遠慮なくおっしゃってください。僕にできることならなんでもします」

「本当ですか」

 律の手の温かさが膝に伝わる。

 僕は律の手を上から強く握った。これは大変男らしい行動だと思う。しかし頭に血が上ってくらくらする。

 律が言うには、去年の暮れからしつこく言い寄って来る男がいる。それは銀行員の橘幸三たちばなこうぞうという男で、三日に上げず恋文を送ってくるのだそうだ。律が肺結核を患い生死の境をさ迷っているというのもお構いなしに、自分勝手なことを書いて送ってきたという。男から手紙が来るなどということは、大変ふしだらなことだと父親は思っている。万が一にも父親に手紙を見られてはならないと、こうして外で受け取っている。

 郵便配達夫は盛田兼吉もりたかねきちといって、最初は偶然に家の前で会った時に事情を話した。それで律が郵便局に取りに行くことになった。今日はたまたま往来で会ったので受け取ったらしい。

「橘に会っていただけませんか? そして、私に付きまとうのはやめるように言って欲しいのです。なんなら、あなたが私の恋人だと言っても構いません」

 律はそう言って目を伏せ頬を染めた。

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