3-1
悲しみを胸に抱えたまま、僕は日々を過ごした。それでも大学へ行き先生のお宅に行く生活はこれまで通り続けていた。傍目には変らない日を送っていたように見えるだろう。自分ながら、これは大したことだと思っている。
目をつぶれば彼女の面影に胸が詰まる思いをし、朝顔の花を見れば、彼女が持っていた団扇と白い指とを思い出す。
一人になると、ふいに涙に襲われることもある。
そうやってひと月ほどたったある日のこと。僕は先生にお使いを言いつかった。銀座の鳩居堂で墨を買ってきて欲しいということだった。「せっかく銀座に行くのだから、ついでに木村屋のあんパンも」と先生は言って、恥ずかしそうに口をすぼめた。
あんパンは先生の大好物なのだ。ひょっとすると木村屋のあんパンのほうが目的なのかもしれない。僕などは、どこの店のあんパンでも変わりはないように思うが、なんといっても木村屋はあんパン発祥の店だから、先生には違いがわかるのかもしれない。
僕は先生のお役に立つのが誇らしく、初夏の東京の町を飯田駅から九段坂下のほうへ大股で歩いた。
白い蝶が舞い、遥か頭上では小鳥が飛び囀っている。
僕は久しぶりに明るい気分になって、鼻歌を歌っていたかもしれない。自分ながら、ようやく悲しい恋の痛手から立ち直ったのだと思っていた。
何気なく九段坂を見上げると、若い女が白い
僕はその人を見て、はっとした。忘れもしないあの日、大学病院に担ぎ込まれていった、美しい瀕死のお嬢さんだ。
我知らず彼女のほうへと歩を進める。彼女の前に来て、僕は考えもなしに話しかけた。
「先日、大学病院に入院されましたよね。よくなられたのですか?」
こんなことを突然訊ねるのは、非常に
彼女は大きな目を瞠(みは)って僕を見ていたが、ふっと微笑んだ。
「ええ、すっかりよくなりましたの。でも、あなたはどなた? どこかでお会いしましたか?」
「俥に乗って病院に行く途中のあなたとすれ違いました。無縁坂でです」
「そうでしたの」
彼女は
生死の境をさ迷っていた人が、たったのひと月でこんなにも健康になるものだろうか。病的な白い肌は今や輝くような生気に満ち、物憂げだった瞳もキラキラと輝いている。
「僕はてっきりあなたが亡くなったものだと思っていました。こうして生きておいでで、それにこんなにお元気になって……。僕は……」
不覚にも涙がこぼれた。
「そんなにも思ってくださるなんて。嬉しい」
彼女は大胆にも往来の真ん中で僕の手を握った。あまりの嬉しさに気が遠くなりそうだった。
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