2-2

 僕は長い間、魂が抜けたようになってそこにぼんやり座っていた。

 病室からさっきの下男が飛び出してきた。僕の隣に座り、両手で顔を覆って肩を震わせ泣いている。

 その声が僕の胸を締め付ける。

 この人がこんなに泣いているのだ。医者が言ったことは本当なのだ。

「あのう、お嬢さんはそんなにお悪いのですか?」

 老人は涙に濡れた顔で僕を見上げた。

「わしは諦めんよ。医者がなんと言おうとお嬢さんは助かる。わしは今晩は寝ないでご祈祷申し上げるつもりだ。こう見えてもわしの祖父じいさんは神主でな」

 そこへ若い男がやって来た。年は僕と同じくらいで、やはりどこかの書生のような格好をしている。

「わしの自慢の息子だ。財前ざいぜん先生のとこでお世話になっておるのだ」

 財前先生を僕は知らないが、たいそう自慢なようで、老人の皺に埋もれた低い鼻が、少しだけ高くなったように見えた。

 息子は「涼木武四郎すずきたけしろうです」と自己紹介して握手を求めてきた。溌剌としていて目に光がある。僕はちょっと気圧けおされて、ドギマギしながら握手に応じた。

「持って来てくれたか?」

 老人が武四郎に言う。

「はい」

 武四郎は風呂敷包みを差し出した。老人が結び目のところからちらりと中をのぞいた。

「よし。これでいい」

 どうやら中にはご祈祷の道具が入っているようだ。

「父さん、頼んだよ。俺もこっちから祈っている」

 父と子は悲壮な顔でうなずき合った。

 この近代的な明治の世の中である。祈祷で病気が治るなどと、そんな馬鹿なことを本気で信じているのか、と口には出さないが思っていた僕は、今、むしろ僕のほうが愚かであったと思うのだった。

 親子のこの信念があれば、お嬢さんの病気は治るかもしれない。

 父親はご祈祷の道具を携え病室に向かった。

 僕と武四郎はその後ろ姿を見送ったあと、並んで腰掛ベンチに座った。

「僕はりつお嬢さんが生まれた時から、まるで兄妹きょうだいのように育ったのです。優しくて心の美しいお嬢さんがこんな病気にかかるなんて、僕は天を呪いますよ」

 武四郎は律との思い出を細々と語った。僕はその話をあまり聞いていなかった。武四郎は天を呪うといいながら、父親の祈祷をたすけ、自分もこっちで祈祷すると言う。祈祷がどのようなものか知らないが、天を呪いながらできるものとは思えない。

 さっきは武四郎親子の祈祷で治るかもしれないと思ったが、少し冷静になってみると、やはりそんなものでは治らないだろうと思う。

 やはり律さんは死んでしまうのだ。

 悲しみが押し寄せてきて、これ以上ここにいるのが辛くなってきた。

 僕は武四郎に挨拶をすると、ふらふらと立ち上がり病院を出た。生涯に一度の初恋は、わずか数時間で終わったことを知った。

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