2-1

 本郷の大学病院に友人を見舞った。数日前に手術を終えた友人はすこぶる元気で、『なんだおまえ、来るのが遅いぞ。明日はもう退院だ』などと文句を言う。それでも見舞いの卵糖カステラを頬ばって、『美味い美味い』と上機嫌だった。

 すっかりよくなったら、この間できた銀座のビヤホールで快気祝いをやろうと約束して病院を出た。せっかくの休みなので、不忍池のほとりで読書でもしようと、無縁坂をのんびり下った。

 するとむこうから一台の人力車がそろそろと上ってくる。くるまの両側には、恰幅のいい中年の紳士と妻らしき上品な婦人、そして下男と見える五十歳くらいの老人がいて、代わる代わるに俥の中をのぞいてはなにかを話しかけている。

 興味を惹かれて、僕は顎を上げ、すれ違いざまにのぞき込んだ。

 その一瞬のことを、僕は生涯忘れないだろう。

 大きなくくまくらに寄りかかり、豊かな黒髪がそれにこぼれている。はちじょうきを胸まで引き上げ、手には朝顔の絵の団扇を持っている。白魚のような手は気だるげに団扇をくるりと回した。

 彼女の清楚な美しさ。可憐さ。病に冒され熱っぽい儚げな眼差し。

 僕の心はたちどころに彼女の虜となってしまい、思わず一歩踏み出した。すると彼女は目線を上げて、僕に目を合わせた。ふっと微笑んだような気がした。

 魂を抜かれる、という言葉がこれほどぴったりする感覚はないだろう。

 無縁坂の真ん中で、我を忘れて立ち尽くす僕の目には、今まさに沈もうとしている夕日に重なって、美しい彼女の顔が焼き付いていた。

 気がつけば人力車とその一行は、病院のほうへと角を曲がって行くところだった。

 僕は慌てて追いかけた。ここで別れてしまっては、二度と彼女に会えないかもしれない。僕の頭に彼女の面影を求めて東京中をさまよい歩く自分の姿が浮かんだ。

 頭を振ってそれを打ち消し、僕は足を速めた。

 彼女を乗せた人力車が門の中に入っていく。少しおいて僕も入ろうとすると、守衛の老人が門を閉めながら言った。

「面会はもう終わりですぜ」

 皺の寄った意地悪そうな顔だった。

「ぼ、僕は今入っていったお嬢さんの身内の者です」

 嘘をつくと舌がもつれる。

 しかし老人は僕の言葉を信じたようで、中に入れてくれた。

 彼女の病室は二階の奥だった。裕福な家の娘なのだろう、一人部屋だ。

 僕はなんとかして名前だけでも知りたいと、扉の閉まった部屋の前でうろうろしていた。 中からは医者の低い声と洟をすする音が聞こえる。病状は思わしくないらしい。

 医者が沈痛な面持ちで現れた。

「あのう、お嬢様の具合は?」

 縋り付くようにして訊くと医者は、僕がお嬢様の家の書生とでも思ったのか、「今夜が山でしょう」と力なく首を横に振った。

 僕は廊下の腰掛ベンチにどすんと腰を下ろした。

 今日会ったばかりの彼女はまだ名前も知らない。それなのに今夜限りで永遠の別れとなるのだろうか。そんな残酷なことがあるだろうか。

 初恋なのに。

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