水鏡花の幻 第三話 幻往来

和久井清水

第三話 幻往来(まぼろしおうらい) 1

 これは僕が、名作『幻往来』の誕生にしくも寄与した時の話。


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 文豪、泉鏡花先生の弟子になって半年。先生の一番弟子という立場にようやく慣れてきた。

 大学の授業がある日はそれが終わってから、休みの日には朝から先生のお宅に出掛け、普段はできないような仕事を、つまり物置の掃除や押し入れの整理や床磨き、そしてごくたまにできたての先生の原稿を読ませてもらい、感想を述べるという胃の縮むようなことをする。

 そして一日の仕事が終わると、奥様のすずさんが作ってくれた夕食を一緒に食べるのである。普通、書生は台所の板の間で食事をとるものだが、鏡花先生は、「こちらで一緒に」とおっしゃって、すずさんと三人で食卓を囲むのだ。

 口の悪い友人は、「弟子といっても、それではまるで雑用係だ」などと言って笑うが、友人はまるでわかっていない。おそばにいることで、先生の考え方や生き方を学び、ひいては文学を学ぶことになるのだ。文学とは人生そのものだからである。

 それに僕は飯田町の下宿をまだ引き払ってはいなかった。先生のお宅に居を移せば仙台の父の知るところとなり、一悶着起きるのは必至である。なにせ父には僕が文士を目指していることは、これっぽっちも言ってないのだ。たとえ泉鏡花の弟子であろうとも、父が許すはずはない。父の会社を継ぐことが生まれた時から決まっている身としては、文士の「ぶ」の字も口に出せない。唯一文士になるには、鏡花先生のもとで修業を積んで、先生のような人気作家になってしまうより他はないのだ。

 僕が、大学と先生のお宅とを往復するだけの毎日なのを、先生とすずさんは心配しているのを知っていた。それで友人が盲腸の手術を受けたことを知り、彼の見舞いに行くので休みをもらいたいと申し出た。

 先生とすずさんが喜んで許してくださったのは言うまでもない。

 お見舞いになにかを買って持って行くようにと小遣いまでくれたのだった。

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