第30話 夕凪の過ち①―神谷視点―

 私は目の前にいる名取さんに昔の自分を重ねていた。教師と生徒の恋愛は社会的に許されるものではない。

 そんな道へ進もうとしている彼女を止められるのは、その過ちを経験した事がある私しかいないと思ったのだ。


「名取さん、話をする前に……少しだけ私の昔話を聞いてもらってもいいかしら?」

「ええ……」


 こんな話を生徒にしたら大問題になるだろう。最悪、教育実習は中止になるかもしれない。

 だとしても私は止まるつもりはなかった。ここで見過ごしたら、彼に2度と会う事は出来ない。そんな気がしたのだ……。




 容姿に恵まれていた私は、昔から他人との距離を取るのが苦手だった。見た目が良いというだけで、周りから見れば勝ち組の人生と思われるだろう。だけど、現実はそんなに甘くはない。得した事より損した事の方が多いと自分では思っている。


 中学時代から、男子に思わせぶりな態度を取る嫌な奴として周りの女子から煙たがられていた。


 から人気のない場所へ招待を受ける日々。『人の男に色目を使うな』と文句を言われても、大抵の場合が誰の事を言ってるのかすら分からない。


 素直にそれを言ってしまうと相手が怒り出すので、言い返したい気持ちを抑えてその場をどうにか取り繕う。

 そんな私の努力を嘲笑うかの様に、男子の方が勝手に近づいてくるのだ。


 その後は決まってから招待を受ける。この繰り返しだった。

 

 そんな日々を送る私が辿り着いた防衛手段は、一貫して男子に対して冷たい態度を取る。これしかなかった。その結果が『調子に乗っている』と陰口を叩かれる始末なのだから本当に笑えない。

 一体私はどうしたら良いのか……誰でも良いから教えて欲しかった。

 

 そんな連鎖は高校に入学しても変わらない。生徒数が増えた分、むしろ状況は悪化したとも言えた。

 そんな風に周りから嫌われていた私に友達なんて出来るはずもなく、入学してすぐに授業をサボりがちになった。

 たまに学校に行っても、当然の事ながら授業についていけない。1学期の成績は散々たるものとなった。


 赤点を取った私は、夏休みに行われる追試と補習を余儀なくされた。違うクラスを担当をしていた優先生と話をしたのはその時が初めてだった。


「神谷さん。勉強したくないのは分かるけど、留年だけは避ける様に頑張ろう。それに学生の時に学んだ事は社会に出た時に必ず役に立つからさ」


 既に頭の片隅に退の2文字が過っていた私はその言葉を素直に受け入れる事が出来なかった。


「学校の勉強が一体何の役に立つのですか?数学や化学が私のこれからに役立つとは全く思えません。それに私は国内から一歩も出る予定もないので英語も不要です」


 今思い返してみても、本当に可愛げのない性格をしていたと思う。


「言いたい事は分からなくもない。極論を言ってしまえば、学校で学んだ事が直接的に役立たない可能性があるのも事実だ。だけど勉強を頑張れば、偏差値の高い大学への入学、条件の良い会社への就職に繋がるんだ」

「別にそんな事望んでませんけど……」

「まぁ、聞いてくれ。僕が言いたい事は勉強はより良い未来を掴むための大事なステップであり目指すところはもっと先にあるという事だよ。あとは精神的な問題もあって、やりたくないからと言ってすぐに投げ出してしまうなら、それは社会に出ても同じ事をしてしまう可能性が高い。根性論は好きじゃないけど、というのは思いの外簡単についてしまうんだ」

「黙って聞いていれば最後は根性論ですか……馬鹿馬鹿しい」


 『逃げ癖』という言葉に苛立ちを覚えた。学校を休みがちな私に対する当てつけにしか思えてならなかったのだ。


「今の君達の年齢でそれに気づけと言うのは無理かもしれない。だけど社会に出たらきっと分かる日が来るはずだ。その時に後悔して欲しくないから教師は口うるさく勉強しろと言ってしまうんだよ」

「私はそんな余計なお節介を求めてませんが?」

「まぁ、そう言わずに。どうしても学校が必要ないと言うのであれば仕方ない。だけど騙されたと思って1年の間だけでも頑張ってみて欲しい。僕も出来る限り協力はするからさ」


 優先生は苦笑いを浮かべながら、そう言った。留年するのは親の手前、私としても本意ではない。


 彼に言われるまま真面目に補習を受ける事にした。だけど元々授業についていけなかった私には補習の内容ですらも難しかった。


 辛うじて彼の授業については理解出来たが、他の科目はついていけない。留年は避けられないと半ば諦めていた私は、腹いせに彼に担当教科以外の質問をしてみる事にした。


 恥をかかせるつもりだったのに、彼は自分の担当教科以外も分かりやすく説明してくれた。私は補習で分からない所は優先生に質問する様にした。その結果、留年を免れる事が出来た。


 今まで苦手だと思っていた勉強がこの夏を機に楽しいと感じられるまでに私の心境は変化していた。


 2学期になってからも私は職員室に足繁く通った。いつの間にか職員室内での私の印象が不良から勉強熱心な生徒に変わっていた。

 気づけば他の教科の先生達も気にかけてくれる様になっていたが、下地が出来ていない私は変わらずに優先生に質問していた。



 そんな努力の甲斐もあり2年生に上がると同時に、就職クラスから進学クラスへ進路を変更した。

 

 相変わらず友達は居なかったけど、優先生以外の先生にも質問できる様になっていた私は、それなりに充実した日々を送っていた。


 優先生と同じ科目を教える稲葉先生が私の担任なので、今年も優先生の授業を受けられない事だけが残念だった。


 稲葉先生に不満があるという訳ではない。彼は持ち前の明るい性格、生徒に対して分け隔てなく接する態度が生徒に好評で、文句のつけようがないのは理解していた。


 学生時代はラグビーをしていたらしく、がっしりとしたスポーツマンらしい体型。男性に苦手意識のある私はどちらかと言うと苦手なタイプだった。


 そんな苦手意識と好きな先生に勉強の質問をして良いという校風が、私の行動を後押しした。

 稲葉先生と優先生は職員室の席が隣だったので少し気まずかったけど、私は2年生になっても変わらず優先生に質問を続ける事にしたのだ。

 そんな私の態度に不快感を示すわけでもなく、稲葉先生はいつも声をかけてくれた。


「顔は瓜生先生に遥かに及ばないけど、勉強の教え方については負けない自信があるぞ。神谷、たまには俺に聞きに来てもいいんだからな」


 それが彼の口癖だった。担任の自分に聞きに来ない生徒を彼はどう思っていたのだろうか……。

 きっと気分は良くなかったに違いない。


 稲葉先生に質問する……そんな機会は絶対にないと思っていたが、意外と早く訪れる事になった。


「残念だったな神谷。瓜生先生は私用で今日は休みだぞ」


 その日はたまたま優先生が休みで、それを教えてくれた稲葉先生のしてやったりな顔が不愉快だった。


「……そうですか。では明日に改めます」


 無視する訳にもいかず最低限の返事をして、踵を返す。職員室を出ようとした私に稲葉先生は続けて声を掛けてきた。


「一応こんなんでもお前の担当教師なんだけどな。せっかく来たんだし俺で良ければ質問して行ったらどうだ?」

「結構です」

「そう言うなって。今回だけ騙されたと思って 説明を聞いてみろって。そんで、どこが分からないんだ?」


 これ見よがしに溜息を吐いてみせたのに彼は一向に気にした素振りを見せない。

 このまま頑なに断るのも大人気ないし、かと言って優先生以外に聞く事も抵抗がある。

 葛藤した結果、押し問答をする時間が無駄だと感じた私は仕方なく教えてもらう事にした。


「ここが分からないのですが……」

「おお、お前こんな先のところまで勉強してるのか。瓜生先生から話は聞いていたが感心感心。よし、それじゃ早速解いていこう。この問題の考え方はな……」


 授業を通して知っていたものの、稲葉先生の説明はとても分かりやすかった。


「よく分かりました、稲葉先生ありがとうございました」


 とりあえず稲葉先生の顔は立てたし、もう用はない。その場を去ろうとした私だったがそれで終わりではなかった。


「よーし。本当に理解したか確認の意味も含めて、次は応用いってみようか」


 そう言って稲葉先生は応用問題を嬉々として出題してきた。付き合う義理はなかったけど『神谷にはまだ難しいか』と煽られて黙っていられる私ではなかった。


「おお〜、正解だ。よく出来ました」


 少し時間はかかったが正解できた事にほっと胸を撫で下ろしていると、私の頭に稲葉先生の手が置かれた。

 声を出す間もなく、頭をポンポンされた。男女問わず、教室でこれをやっている光景を見ているので彼の癖なのだろう。


「……っ!?」

「ああ……嫌だったか。すまんすまん」

「セクハラです」


 恥ずかしさのあまり、私は文句と同時に彼を睨みつける。


「すまん、つい癖で……。今後気をつけるから教育委員会だけは勘弁してくれ」

「ぷっ……冗談ですよ」


 慌てて弁解する稲葉先生を見て、思わず吹き出してしまった。

 そこでふと机の上の広げられたノートが目に留まった。書かれている内容は、板書のフォーマットだろうか?口頭で説明する際の注意点が事細かく書かれている。


「おいおい、人のノートを勝手に見るのは良くないぞ。まぁ、なんだ。この事は他の生徒には内緒にしておいてくれ。こういう真面目なのは……俺のキャラじゃないからな」


 そう言いながら、稲葉先生は恥ずかしそうにノートを閉じた。優先生に義理立てする事ばかり考え、彼の努力を知ろうともしなかった。


 校風が良しとしていても、自分が彼の自尊心を傷つけてしまっていた事をハッキリと自覚した。


 私はこの日を境に、分からない事は稲葉先生に質問をする様になった。この私の行動の変化を1番喜んでくれたのは紛れもない優先生だった……。

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