第10話 瓜生『先生』

 小春ちゃんの転入試験の日から1週間が経過した。勉強に自信がないと言っていた割に、彼女は進学クラスへの転入となった。

 注文していた制服も到着し、今日が初めての登校となる。


 昨夜は届いた制服に袖を通し、満面の笑みを浮かべる小春ちゃんと娘の晴れ姿を喜ぶ雪さんの仲睦まじい姿を見る事が出来た。

 2人を見つめる僕の顔は、他人様ひとさまにお見せ出来ないと自覚するぐらい緩みきっていた。




「瓜生先生、あの……」


 最近起きた1番の変化は、小春ちゃんが僕を呼ぶ時の語尾が、家でもからに変わった事だ。学校生活でうっかり間違えない様にする為の対策だそうだ。

 言いたい事は理解出来るのだが、家の中でも先生と呼ばれるのは今だに慣れない。


「小春ちゃん、どうかした?」

「もう忘れたんですか?家でも私の事をって呼ぶ約束しましたよね」

「ああ……」


 そうだ、僕の方もと呼ばないといけなかった。

 表向きの呼び方を変えたものの、心の中では相変わらず小春ちゃんと呼んでいた弊害が起きてしまった。

 これは確かに気をつけておかないと、学校でも間違える可能性があるな……。


「すまない、気を付けるよ」


 僕は謝罪し、小春ちゃんに話の続きを促した。


「本当にお願いしますよ。それで話を戻しますが、やっぱり先生にはいつも通りに出てもらって、居候の私が先に出ようと思います」


 昨夜のうちに家を出るタイミングについて話し合った。一緒に出る所を誰かに見られない様に、時間をずらす事にしたのだ。


「またその話ですか。昨日ジャンケンで決めましたよね?こう見えても朝は強いですし、早めに行って色々済ましておけば、その分夜が早く帰れるのでこの方が好都合なんですよ」


 昨日も散々気にしなくて良いと言ったのにこれだ……。

 1週間も経過しているのに、相変わらず遠慮しているのは律儀と言うか融通が効かないと言うべきか判断に迷う。


 僕は苦笑いを浮かべると、小春ちゃんから非難の声が上がった。


 「もう。少しは折れてくれてもいいのに……」


 そう言って頬を膨らませる小春ちゃんの子供らしい一面に先程とは違った笑みが自然と浮かぶ。


「また笑った。もういいです」


 そう言って彼女はそっぽを向いてしまった。見かねた雪さんが仲裁に入ってくれた。


「ほらほら二人ともいつまでもじゃれてないでご飯にしましょう。優君、時間なくなっちゃうから急いで食べて」


 時計を見ると、確かに時間が怪しくなっていた。

 テーブルには、サラダ・スープ・焼きたての目玉焼き・トーストとコーヒーが並んでいた。

 雪さんの作る目玉焼きは半熟具合が絶妙で僕の密かな楽しみなのだ。

 彼女は文句の1つも言う事なく、これだけの準備を毎朝してくれている。

 僕はその事に感謝しながら、しっかりと味わった。



「ごちそうさま。雪さんいつも美味しい朝食をありがとう」


 そう言って食器を台所まで運び、洗面所に歯を磨きに行く。

 身支度を終え、ダイニングに戻ると2人は会話をしながらまだ食事を続けていた。

 話題はどうやら今日から通う学校について。彼女達の顔には笑顔が溢れている。


 この光景をもう少し見ておきたいが、流石に時間が厳しい。一声かけて足早に玄関に向かうと後ろから足音が聞こえた。


「優君、今日も一日頑張って。ご飯を作って帰りを待ってます」


 そう言って僕のネクタイを直してくれる雪さん。年甲斐もなく顔が赤くなっているのが自分でも分かる。

 その事を雪さんに悟られない様に、僕は『行って来ます』とだけ返して玄関を飛び出した。


 気づけばもう7月。気温は高くなっているが、それでも僕の火照った頬を冷やすには十分だった。


 期末試験まであと少し……転入試験を終えたばかりの小春ちゃんが、また頭を抱える姿を想像して、思わず笑いが込み上げてくる。

 そんな事を考えながら、僕は彼女に追いつかれない様に足早に学校へ向かった。



 職員室に入ると、既に来ている人達が居た。教育熱心と評判の先生方だ。その中の1人……益田先生が僕に近づいて来た。


「瓜生先生、今日は珍しく早いですね」


 先生方とはあまり話す機会はない。基本的に、挨拶を交わす程度の仲だ。

 なので、こうして声をかけられる事の方がよっぽど珍しい気がする。


「おはようございます。早く帰りたいので、その分朝を早くしようと思いまして……」


 嘘をついたのには理由がある。校長との話し合いで、先生方への周知はしない方向で話が纏まったからだ。

 僕の住む家の住所を知っている人間はごく一部だし、おそらく誰も気づかないだろうと判断した結果である。


「そうでしたか。実は瓜生先生にご報告がありまして、鷹野がついに進路を決めたんですよ」


 久しぶりに聞いた名前に思わず体が反応してしまった。


「彼女はどこを希望していましたか?」

「涼風大学の法学部だそうです。このままいけば問題なく合格出来ると思います。最近は、より一層勉強に励んでいます」

「そうでしたか。本人の頑張りは勿論ですが、これも特別クラスの先生方のご指導の賜物ですね。

益田先生、これからも宜しくお願い致します」


 そう言って頭を下げる。すると益田先生は慌てた様子で、僕に頭を上げるように言った。


「まったく。瓜生先生は本当に何というか相変わらずですね」


 そう言いながら苦笑いを浮かべていたが、相変わらずの意味がいまいちピンと来なかった。

 そんな僕の考えが態度に出てしまっていたのだろうか?


「瓜生先生は……。いえ、これは余計なお世話でした。鷹野の事は私達に任せてください」


 彼は何か言いたそうにしていたが、結局それ以上語る事もなく僕の肩を叩き去っていった。


 それにしてもあの鷹野が法学部。しかも難関校の涼風を狙えるぐらいまでなっていた事には驚いた。

 僕が彼女と接点があったのは1年生の時だけで、当時はそれだけの学力がある生徒ではなかった。


 どうか彼女の頑張りが報われて欲しい……。


 そんな事を思いながら、僕は期末試験に向けての授業の準備を始めるのだった。

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