4 メタフィクション構造をどう展開するか ~「作中作」が好きすぎて困る~
「作中作」とはつまり、物語の中に展開されている別の物語のことである。小説の中に小説、という入れ子構造には昔から心ひかれるものがあった。理由を聞かれても「好きだから」と答えるほかないのだが、当初には「一つの小説を読んでいるだけなのに、複数の小説が読めるなんてラッキーじゃん!」なんて損得勘定があった気がしないでもない。
「作中作」と初めて出会ったのは小学生の頃だったと記憶している。赤川次郎の「悪妻に捧げるレクイエム」が祖父母の家にあり、それを拝借して読んだのだった(小学生には早すぎる内容であったことは言うまでもない)。四人の作家が主人公で、それぞれ「妻を殺害する」というテーマで短編小説を書き始めるのだが、小説内の出来事が次第に現実でも起こり始め……という物語だった。四人のキャラ分けがうまく、それぞれの得意分野やジャンルが作中作にも反映されていて非常に面白い。
その次に出会った作中作は、恩田陸の「三月は深き紅の淵を」である。これは「三月は深き紅の淵を」という小説を巡る物語で、本好きほど引き込まれる内容となっている。この物語には、恩田陸自身が言及しているように、外側の物語と内側の物語が存在している。外側とはつまり、「三月は深き紅の淵を」という小説を探し求める(あるいは書こうとしている)人々の物語である。ここから派生した「麦の海に沈む果実」などの理瀬シリーズは、今もってなお私の愛読書だ。一方、内側の物語とは、「三月は深き紅の淵を」の本編にほかならない。それがどのような内容なのか、読者には断片的にしか知らされないのだが、恩田陸は後に「黒と茶の幻想」など、本編を実際に書き上げて上梓するという離れ業を見せている。
これら二つが、私の「作中作」遍歴の原体験である。
それ以降、「作中作」あるいはメタフィクション系の物語、と聞けば、すぐ手に取る癖がついてしまった。中井英夫「虚無への供物」や、筒井康隆の作品群などがそれだ。
最近では、恩田陸が再び「作中作」を手掛けた「鈍色幻視行」が最高だ。この物語で中心に位置するのは「夜果つるところ」という小説であり、そして恩田陸自身が「夜果つるところ」そのものを別に書き上げている。この二冊が並んでいるのを見たときに、私は「とうとう来た!」とうなって即座に購入した。二冊とも一晩で読んでしまったことは言うまでもない。この「夜果つるところ」が凄まじい傑作なので読んでみてほしい(「作中作」とか「メタフィクション構造」とか抜きにしても、完成度が著しく高い)。
書き手として考えると、当然の如く「作中作」はコスパのあまりよくない系統である。一つの作品を書き上げるために、二作品、三作品分のアイディアが必要になるからだ。それに、外側の物語と内側の物語で相乗効果を踏むためには、それぞれの内容がどうつながり、どう響き合っていくかまで計算に入れないといけない。どれだけの苦労が生じるのか、想像を絶する。その一方で、それがうまくハマったときには、「作中作」でしか表現できない面白さが発揮できる。
自分が作中作を取り扱ったのは「小説キャンパーズ」という長編だ(メタフィクション構造で言えば「明治バーチャルナラトロジー」という作品があるが、これは「作中作」とは異なり、登場人物たちが「自分たちは小説の登場人物である」と自覚しているタイプのメタフィクションである)。
「小説キャンパーズ」では、三人の大学生が小説を書くためにすったもんだする様子を描いた。もちろん、彼らが書き上げた小説も全て載せている。ただ、「小説キャンパーズ」という容れ物のために三篇の小説を書き上げることはできず、今までに書いた短編を無理矢理ぶちこむという暴挙に出るほかなかった。
彼ら三人が書いた小説は、最終的に、大学生たちがある謎を解決するために役立つという構成にしてある。そのため、「小説キャンパーズ」の中で大学生たちが解き明かす謎と、そのヒントとなる三つの短編小説(大学生たちが書いたという設定だが、実はそれ以前に葉島が独立した作品として書いていたもの)との間で、つじつま合わせにはかなり苦労した。「この三つの短編をヒントとするならばどんな謎が設定できるか」という逆算的な思考と、「『小説キャンパーズ』のプロットとしてはどんな謎が自然で魅力的か」という順接的な思考を行ったり来たりして固めていった記憶がある。
そんなふうにして出来上がった作品だから思い入れもひとしおだ。実はシリーズ化の構想もあって、三人組が連作小説に挑戦したり、短歌を読んでみたりしても面白いなぁ……なんて思っているのだが、いかんせんエネルギーが足りない。何年後か分からないが、時間的・体力的に余裕ができたときに、挑戦してみたいものである。
他にも、「作中作」を取り扱った小品として「怪談シンギュラリティ」という短編がある。原稿用紙にして二十枚程度のちょっとしたもので、特に完成度が高いとは思っていない。自分の場合、長めの中編を書き終わると、クールダウン(あるいは次の中編に向けたウォーミングアップ)のような感じで、ごく短い短編をいくつか書く、というパターンがある。「怪談シンギュラリティ」もその中の一つで、肩の力を抜いて書いた作品である。
登場人物たちが、それぞれ怪談を語っていく。そしてそれぞれの怪談が結びつき、外側の世界で異変が起きる――という構成だ。これだけ聞くと面白そうだし怖そうなのだが、全然面白くならなかったし怖くならなかった。文体を軽くし過ぎたのか、映像的な怖さに走りすぎてしまったのか、シンプルに筆力が足りなかったのか分からないが、小説ってこういうところが難しい。
エネルギーが足りないとか難しいとか書いておきながら、それでも懲りないのが小説家である。自分のような「自分の読みたいタイプの小説を自分で書く」という人間はなおさらだ。自分が読みたい(引いては書きたい)と思えば、それに抗うことなどできない。
そして、再びホラー系の「作中作」へ手を出したのが、中編「ミロの邪神」である。最近のモキュメンタリー(フェイクドキュメンタリー)の流れを汲む作品であり、自分でもちょっと気に入っている。私(葉島航)が、亡き伯父が遺した小説をカクヨム上にアップする、という体裁をとった物語だ。全部で五つの不完全な物語が収録されていて、それらは思い付くままに自由に書いた(思い浮かんだ場面を整合性無視で書けばよかったので、すごく楽しかった)。物語の最後には、一応、五つの物語がある一つの推論へと収斂されるようにしてある。それほど緻密なサプライズにはしていないので、過剰な期待は不要だが、もし興味があればぜひ一読してみてほしい。「小説キャンパーズ」ほど長すぎず、「怪談シンギュラリティ」ほど小品すぎず、ちょうどいい塩梅だと思う。
それで、だ。
先にも述べたように小説家とは懲りないものである。
実は、今取り掛かっている短編が、またもや「作中作」がらみのものなのである。もっと言えば、「ミロの邪神」でも挑戦したモキュメンタリーものだ。
ただ、自分なりの工夫を凝らし、ただの「作中作」ではなく、ただのフェイクドキュメンタリーでもなく、それらの形を統合し発展させたものになっている(はずだ)。
遅くとも今年(二〇二四年)の九月中旬にはアップできると思っている。
タイトルは未定だが、「よつすば様」というキーワードを必ず入れる。
文章は、書けば書くほど上達する。それは誰もが知っていることと思う。それは筆力とは少し違う。同じテーマや同じ構成のものをこねくり回すことで、知らぬ間にステップアップしていくものである。
自分の首を絞める覚悟で、ここに書いておく。
その「よつすば様」なる作品は、私が書き上げた小説の中で、最も怖い。
他人が小説を書く話ほどおもしろいものはない。 葉島航 @hajima
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